漢和辞典

新刊の書店に寄る機会があり、漢和辞典を見てみた。『元亨釈書』を写す中で未知の漢字があり、手持ちの辞書を引くも載つてゐなかつたため少し大きめのものの購入を検討し始めたからである。数万円する大きなものを考へてゐたが、さうしたものは置いてをらずたくさん並んだ小型のものを手にしてみて驚いた。字数も豊富な上にとにかく見やすい。活字も大きいのだらうが二色刷りの頁レイアウトは目に優しいのである。今まで使つてゐたのは大修館の『新漢和辞典』で、高校の漢文学習に買つたものだから実に三十四年前の辞書だけあつて活字が小さく見るのが辛くなつてゐた。それが最近のものは見やすい上に情報量も多いのである。大きな漢和を買ふ前に、とにかく常用のものを買ひ換へたくなつて思はず購入することにした。各社から出てゐるものはそれぞれ奇麗で使ひやすさうで迷ふが、結局手に入れたのは学研から出てゐる『漢字源』で、三千余円はこの先二・三十年使ふ事を思へば安いものだ。もつと早くに買つてをけばよかつたと思ふ。暫くは辞書を捲るだけで楽しめさうである。
『中世神話』山本ひろ子著(岩波新書)読了。伊勢の外宮の神官渡会氏が自分たち一族と外宮の地位向上のために捏造に捏造を重ねた結果が「伊勢神道」であつたことがよくわかつた。其処に中世的な想像力が働いてゐたのは確かだとしても、「神話」なるものがこのやうに簡単に捏造改変されてしまふものであるかを知ると、記紀神話とて当然其の例外でないのは当たり前の話だと納得する。今現在の自分の興味から少し離れた主題であるせゐもあつて、ざつと読み進めたのだが、印象に残つたのはそんな処である。其れにしても鎌倉期から南北朝・室町に掛けて人々は天地開闢の神話を本当に信じてゐたのであらうか。仏教的世界観だと始原に大した重要性はない、といふより世界そのものが輪廻の中に巻き込まれて数へきれぬ程昔からの漠然とした連続といふイメージで捉へられてをり、普通の人たちは原初に興味などなかつたのではないかとも思ふのである。