報道の不思議

最近わたしが不思議でならないのは、警備会社の六億円強奪事件についての報道が少ないといふか、世間的に余り騒がれてゐないことである。手口といい金額といい、もつと大きな扱ひがあつて然るべきではないかと思ふ。犯人は内部の事情に詳しい人間だらうとは素人にも推測できるが、其の線での捜査の様子も少しも伝はつて来ない。すぐに捕まりさうだのにさうでもないし、警備会社として余りにお粗末な顛末で、本来倒産しても不思議ではない事態だと思ふのに、何でも郵政絡みの契約を独占してゐるといふから、政治的な圧力が何処からか働いてゐるやうにも思へてしまふ。何で此れ程気になるかといふと、三億円事件の時とマスコミや世論の動きが余りに違ふことに驚いてゐるからである。あの当時の、マスコミの取り上げ方や日本中を巻き込んだ関心の高さは、あれはひとつの時代の中でしか起こり得ない事態だつたのだらうか。ほぼ同じ時代にわたしが体験したあと二つの事件、即ち「浅間山荘事件」と長嶋茂雄引退試合は、もしかすると国民全体がひとつとなつて誰もが注目した最後の出来事だつたのかも知れない。
今度の震災や原発にしても、あの頃のやうに誰もが同じ感情や興奮と倶に話題にする出来事といふ感じではなく、自然災害の恐ろしさや被災者への支援、原発事故と、焦点が複数化してゐる印象がある。まさに「同時多発」といふ感じでいろいろなことが起りすぎるのと、情報のソースとそれを受け取るメデイア、さらに画像や映像が過多ないし過剰なために、殆どの人間が同時にひとつの事件に注目するといふ事態が起こりにくくなつてゐるのだらう。だから、思つた通りに起つてゐたメルトダウンのことも、マスコミも国民も取り上げ方や怒りが中途半端で煮え切らないままなのである。国民の注目が其処に集まつてゐれば、本来集中砲火のやうな批難と追求の嵐が巻き起こつて然るべきだが、其れもない。戦争時と同じやうに、大マスコミの無能さ不見識と恣意性を感じざるを得ない。まあ、「大本営」発表の垂れ流しで政府の片棒を担いでゐた以上、掌を返したやうな事をしにくいといふことかも知れぬが、今の大新聞やテレビ局はどうも「報道」の本質を見失つてゐるやうな気がしてならないのである。
六億円事件に関して言へば、犯人たちも事件の扱ひが余りに小さいことに不満を抱いてゐるのではないかとさへ思ふ。三億円事件並みとまで行かなくても、もう少し騒いでくれてもいいのではないか、さう思つてはゐまいかと勝手な想像をするのである。それで業を煮やしてマスコミに犯行声明など出して取り上げて貰はうとして却つて足がついて捕まるやうなことになれば、報道の無視による手柄にされてしまふのであらうか。
どうでもいいことだが、朝日のウエツブ版が「海老ボコ事件」といふ言葉を使つてゐた。何のことだかすぐ分かるにせよ、これがまともな新聞社の使ふ言葉遣ひであらうか。もとより信用できるとも品位があるとも思つてゐない新聞社ではあるが、これではスポーツ紙やタブロイド紙と変らないではないか。驚くべき事態である。