震へと孤独

九月七日(水)晴
考への至らぬ処もあるだらうし、あらゆる可能性を検討した上で得た結論でもない。ただ、自分の思ふこと、感ずること、考へたことを文章にし、何度も読み返し、繰り返し書き直し、ようやく形になつたことを確かめ、やつと外に向けて発信しやうとする。ブログであれ個人誌であれ、自分の書いたものをネツトを通じて送り出す際にわたしは常に震へるやうな緊張と孤独を味はふ。
世間の批判を浴びるかもしれないとか、炎上するかも知れぬといふ恐れから震へるのではない。わたしの脳内に留まつてゐたものが、今まさに余所行きの衣装を着て自分から離れてゆかうとしてゐること自体が、旅立つ我が子の行く末を案じる心配と自分のもとから居なくなることへの寂しさにも似た、覚悟と喪失を伴ふ緊張感を覚えさせるのであり、其処には常に不安が付き纏ふ。
インターネツト上で誰もが自由に、そして簡単にものを書いて発信できるやうになる以前、一般の人間にとつて自分の文章が「活字になる」ことは極めて非日常的な出来事であり、其処には当然の如くに緊張とある種の晴れがましさが寄り添ふものであつた。さうした頃からものを書いてゐる身にとつて、其の緊張には必然的に孤独が伴ふ。不特定多数の「読み手」に対峙したとき、自分は発信者という「個」であるといふことの痛切な自覚であり、同時に書いたものが自分の手から離れてひとり歩きすることを止める術のない孤独である。そして、自分の書いた文章が読まれる状況や読む人々の多様さと、その感想や評価を思ふと立ちすくむやうな気分になる。出来れば取り消して逃げ去りたいと思ふことさへある。書いたものを発信することで、人は人と繋がつたりはしない。むしろ孤独は深まるのだ。
ブログやツイツターの発信者の、どれほどの人がわたしのかうした感じ方を共有してゐるだらうか。恐らくほんの一握りに過ぎないだらうと思ふ。後から手直しもきくし、削除して「なかつた」ことにすることも出来るから、ネツト上の言説にさうした緊張感や責任感が欠如しがちなのは否めない。最近目にすることの多い、ブログでの不用意な一言が物議を醸して問題になる事件は、正にさうしたお手軽さから来る無責任さと緊張感の欠如、そして想像力の無さの結果であることは明らかである。
ネツト上のブログでこんなことを綴る不毛さはあるのかも知れないが、最近わたしは、自分の脳の中に残る、人に伝へたいと思ひ、自分でも明確な「形」を与へたいと思ふやうな考えへや思ひといふものは、少なくとも紙や書物といふ「もの」に残す必要があるのではないかと思つてゐる。電源を落とせば消えてなくなる電脳空間に何を発信しやうと、それは「もの」として残る書物や手書き原稿や、ノートや手紙とは決定的に違ふ何かでしかないのではないかといふ気がして来たのである。わたしはツイツターもフエイスブツクもやらない。スマートフオンも持たないし持つ気もない。コンピユーターやネツト、携帯メールは、ノートや郵便より便利だから使つてゐるだけで、さうしたもの無しでは生きてゆけないやうな生活だけはしたくないと思つてゐた。その意味でこのブログが例外的な使ひ方だつたのである。
電脳は便利な部分の利用に留め、考へたり書いたりすることの基本はものを通じた伝統的な手法で行きたいと今は思つてゐる。だから手紙を書くのに墨も磨れば、電車の中では思ひついたことをノートに書き留める。器用に指を動かして打ち込み、最初から「活字」として液晶画面に光る「文字列」とは明らかに違ふ何かをわたしは求めてゐるのであらう。文章を世に出す孤独に加へ、時代に背を向けてかうした道を独り歩む孤独をも選びとつたことになるのだが、ネツトや電子書籍や電子データは竟に書物といふ「もの」の代りにはならないといふ実感は日増しに強くなつてゐる。