十二月二十一日(水)晴
ネツトにて筆を三本注文す。一休園の天開を二本と欧法筆一本である。天開はお初香の執筆に向け先日妙喜庵で先生のものを借りたところ良かつたので普段使ひにもしやうと思ひ購入。結局香道の執筆にせよ、宛名書きや書簡にしても実用で使ふのは大抵小筆であり、書き味の違ひが字の出来に直結するから、試しながら一番自分にしつくり来る小筆に行き当ればと思ってゐる。欧法筆は大筆ながら半紙六字程度に適するとあつて、黄庭堅の臨書に丁度よいので試してみやうと思ふ。それで思ひ出したが、新春に東博で始まる北京故宮博物院展には黄庭堅の書「草書諸上座帖巻」も出されるやうで、ネツトで見ただけでも圧倒される。正月に出掛けるつもりだが今から楽しみである。
ところで書といふものは唯字を書くものではないから、書かれた文字や文章が良くなくては作品にならない。文章がひどいとどんなに字が良くても書にならないのである。今は誰もがワードプロセツサで文章を作るから最初から活字になつてゐるので、ちよつと見にはまともな文章に見えなくもないが、下手な文章は書にしてみると其の酷さがあからさまになる。逆に書で美しく書かれた文章はワープロに打ち直しても均整のとれた文章になることが殆どである。これは映画とビデオの関係にも似てゐて、ビデオでは見られてもそれを映画として光学的にスクリーンに映すととても見られたものではないことが多い。一方で映画として撮られたものはビデオに落としても何ら問題がないことは誰しも皆経験済みのことであらう。
尤も書家の書く書の作品といふもの自体が本来の書の在り方から逸脱してゐるのも事実であり、書くべき内容がないのに字を奇麗に書いたところで何の意味があるのかと言はれればその通りであらう。古典として残る書は詩文であれ碑文であれ、或は仏典や扁額にしても何かしらの目的があつて書かれたものであり、最初から掛軸に装したり展覧会に出す為に書かれるやうになるのはずつと後の話で、その分価値も下がるのは言ふまでもない。まあ色紙や短冊に書いてそれが売れるならそれも目的のうちといふ強弁も不可能ではないが、王義之も空海も行成も、掛軸の為に揮毫などしなかつたのである。書かれた文章が言語としての機能を果たす実用性こそが書の前提ではないかと余は思ふ。さうなると誰も読めない草書や連綿、まして狂草の類は書家や其の門弟たちの世界だけに通用する自己満足になつてしまふが、すでにある古典墨蹟の読解にはその習得が必要で、またそれらが流麗なものだから真似したくなる気持ちも分かる。何が言ひたいかといふと、美しい字は書きたいし見たいのだが、毛筆で書く実用の場が少ないのに、半紙に習字をさせられる意味は何なのかよくわからないといふことである。書家の書がつまらないのは事実だが、実用としての書と芸術作品としての書が両立する場面が今の世にどれだけあるだらうか。その意味で香席の執筆といふものが、実用性と作品性を備へた現代には稀なことに思へてくる。だからこそ余計に力も入るし、少しでも奇麗に書きたい。天開が届いたら、此の正月休みは書に勤しむつもりである。