奥州合戦

一月二十六日(木)晴
昨日帰りの電車の中で『源平合戦の虚像を剥ぐ』(川合康著講談社学術文庫)読了。極めてスリリングな本で、『中世武士団』の世界と重なることもあり、実に面白かつた。『平家物語』を通読したのは一昨年のことで、それはそれで楽しい読書ではあつたが、所詮は「物語」であり、平家滅亡、鎌倉幕府成立といふ「結果」を知つた者の視点からといふこともあつて、歴史のダイナミスムへの直視を「無常観」が曇らせてゐるのは事実であらう。そして、余が学んだ頃の高校や受験の日本史が如何にさうした「平家物語史観」を脱することが出来ずにゐたかが、この本を読んでよく分かつた。このところの読書では、摂関政治にせよ、院政期、鎌倉や室町時代にせよ、昔日本史で習つた事や、その頃イメージしてゐた当時の状況といつたものが、如何に現実とかけ離れた、ある時期に形作られた「神話」に近いものであつたかを痛感させられることが多い。何せ今から三十年以上前の教科書で学んだことであり、今の日本史では中味もだいぶ書き換へられてゐるのだらうが、この間の歴史認識の変容はある意味科学の進歩と同様な激しさがあるやうに思ふ。
本書では、武士の戦のありやうを、武具や馬、戦法や城郭の築造、さらに兵糧の調達といつた側面から実証的に検証し、平家物語を表面的になぞつただけでは分からない当時のリアルな姿が浮き彫りにされる。当時の武士が跨る馬が今のポニー程度の大きさしかなかつたことや、城を死守して討ち死にする士といふイメージが、後の戦国時代の城を当て嵌めて後代に作られたものであること、平家の権威の凋落ぶりを示すものとして理解されてきた非戦闘員の戦場への動員命令が、実は工兵の動員であり、同じことは頼朝も行つてゐたことなど、余にとりては新たな知見は少なくない。しかし、何といつても最も驚かされたのは、頼朝による奥州遠征の目的が義経追討でも奥州藤原氏殲滅でもなく、源氏の嫡流としての権威を確立するために周到に準備された、前九年の役の再現を伴ふ一大デモンストレーシヨンであつたことを明らかにする見事な手腕である。それまで必ずしも盤石ではなかつた頼朝の権力基盤が、この合戦に元平家側についた武将をも従へて行くことで敗者復活の機会を与へ、さらに全国から一斉に御家人を集合させることにより、初めて誰の目にも否定し難いものになつたといふことなのである。なるほどと膝を打つほどに納得させられた歴史書はさうざらにはない。良い読書であつた。
今年の大河ドラマは清盛ださうで、余はもちろん見てゐないので何とも言へないが、恐らくかうした史学の最新の成果を盛り込んだものにはならず、相変はらず権力闘争史を軸に、現代人に似た妙にヒユーマニステイツクな発想や思ひが入り混じるといふ、奇天烈な代物になつてゐるのであらう。あの、今の道徳観や思想が入り込む科白がとても気持ち悪くて、もう長いこと大河ドラマを見ないが、大河ドラマ好きな人といふのは歴史が好きな訳ではないのであらう。歴史好きであれば、この本が明らかにしてくれたやうな、新たな歴史の真実をこそ求めるものだと思ふからである。武将と妻妾との人間ドラマを見せつけられるより、史料から読み取れる当時の権力のあり方や宗教観の方が、余にとりては余程興味がひかれるのである。