王義之

二月二日(木)天晴
帰宅後嶺庵にて松風を吹く。録音して聞き、如道先生の録音と比較してゆくと細かい処の違ひがよくわかる。直すべき点を頭に入れて再び吹く。これは正に臨書なのだと合点が行く。先人の偉大な作品を前にして、その筆法、奏法を真似て倣ひ少しでも近づかうとする訳である。中々上手く行かないのも臨書に似る。
夕食後再び嶺庵に戻り、今度は本当の臨書。王義之の十七帖。黄庭堅が王義之や顔真卿に学んだことから、また書道は詰まるところ王義之に始まり王義之に終るものでもあり、やはり避けて通ることは出来ないと思つたのである。そこで偶々手許にあつた十七帖を臨書し始めて、すぐに王義之の凄みと格好良さを感じて思はず筆が進む。いやはや之が実に楽しい。草書だから普段しない筆遣ひといふこともあるが、とにかく必死で書体を真似て書き、其れから巻末の活字白文で字を確かめ、成程此の字であつたかと納得して、今度は其の漢字を意識しながら書き直す。正に「習字」の面白さである。
今回より初心に戻り、双鉤法で筆を執り、中鋒即ち筆を真直ぐに立てた直筆で書くことを心掛けた。草書であるから多少側筆になることもあるが、小字でもあり案外書けるものである。双鉤法とは人差し指と中指を倶に筆管の同じ面に掛けて持つ方法で、これだと薬指が筆に当たるので力のある線が書けると黄庭堅も言つてゐるさうだし、長尾雨山も推奨する古来の正法である。確かに筆の運びがしつかりして、伸びやかで腰のある線になる。今後は双鉤法を用ゐやうと思ふ。但し、腕を机から離して書く懸腕法は今回の字の大きさでは難しく、左手の甲に右手の手首を載せた枕腕法にした。
黄庭堅の行書のものは手本として持つてゐる限りは大体一度は臨書を終へたので、より深く理解するために王義之を出来る限り臨書し、合間に余の好む顔真卿も臨書して再び黄庭堅に戻るといふのが現在の目標である。その時分には黄庭堅の狂草に通ずる運筆法も少しは会得できてゐるであらうか。同時に藤原行成を手本として世尊寺流の仮名もやつて行きたい。茶、花、香の三道は続けるにしても、どちらかといふと娯しみの要素が強く稽古のペースは人任せで、後は理解を深める為の読書を進めるぐらいであらうが、それらに対し書と竹は目下のところ最も力を傾けてゐる。両方とも、もう少しで一皮剥けさうな気がしてゐるといふこともあらうが、今までにない意気込みで取り組んでゐる。