ルドンと松風

二月四日(土)陰
午後N子と家を出で、丸の内の三菱一号館美術館に赴き「ルドンとその周辺―夢見る世紀末」を見る。岐阜県美術館所蔵のものが殆どで、リトグラフなどはよく知るものが多かつたものの未見の作品も幾つかあり、また予想より展示品の数が多くてそれなりに楽しむことを得る。第一部「ルドンの黒」では黒を基調としたリトグラフや木炭画などに、フランス的な陰鬱の心地よさとでも言ふべきものを感じて、内省的に想像力が刺激される。目の前に見てゐる絵から、それ以外の絵画のことや、過去に味はつた感情がぼんやりと立ち上つて来るやうな感じと言へば、少しは分かるであらうか。そして、一転して第二部「ルドンの色彩」においては、華やかなパステル画の花や色彩の眩さに、幽かな動揺とともに気持ちが晴れ晴れとしてゆく。余りの美しさに優しく微笑むことしか出来なくなるのである。このルドンの二面性が意味する画家の内面の深みについて、われわれはまだ本当には理解しきれてゐないのではないか。西洋絵画に対する興味を失つて久しいが、ルドンがそれでも気になる画家のひとりであり続けるのも、絵の美しさとともに、ルドン本人の精神に潜むさうした謎に因る処が大きい。
もつともこの展覧会、タイトルは余り良くない。ルドンの作品は少しで後はナビ派の見知らぬ画家の絵を見せられるのではないかといふ危惧を抱かせるし、夢見る世紀末も形容矛盾といふか、センスがない。と思つてゐたら展示品リストにはフランス語でタイトルが書かれてゐて、直訳すると「ルドンとその友人たち―世紀末の夢」となり、この方が展示品の実際に近くて意味も通りやすくまともである。日本語のタイトルが先にあつてフランス語訳したのかどうかは分らぬが、美術展は実はタイトルが大切だと常々思つてゐるので一言苦言を呈した次第。
また、ルドンのエツチングの師匠であるロドルフ・ブレスダンの銅版画は初めて見たが、極めて微細でありながら驚くべき写実性が、却つて幻想性や狂気を感じさせて面白かつた。池田学の細密画を見る楽しさと似たものを感じたのである。
四時過ぎ美術館を出で、有楽町まで歩きN子と別れ一人地下鉄で早稲田に向かふ。五時少し前一如庵に着くに、既に如覚が稽古中。一曲終り先生に呼ばれ如覚と並んで座り稽古開始。大和樂の後松風本手を二回吹き、それから一尺七寸管を拝借して三人で裏調子を二回吹いてから、余が本手、如覚が裏調子で吹くこと数回。最初は長さや音が合はず、何度も神先生よりダメ出しの指摘を頂戴しながら吹く。本手がたつぷりと吹くので裏調子が待たねばならないところや、本手が早すぎると裏が付いて行けないところなど、だいぶ分かつてくるが、まだ覚束ない。本番の三月四日の如道忌にはまだ少し時間があるにしても、十九日の例會で吹くには余りに未熟な為、十八日の夕方にもやはりもう一度如覚と二人で稽古をつけて貰ふこととなる。終はればすでに六時半を回る。其の後神先生が一升瓶を持つて来られ、三人で飲む。書画の話や草木について痛飲款語止まる処を知らず、気がつけば既に九時を過ぎたれば慌てて辞して帰途に就く。駅前にて卵四個入りを購ひ、途中酔ひが廻つたかそれを落として半分割りつつ帰宅し、急ぎご飯に卵をかけ煎り酒を加へて食す。旨し。翌日早ければ早々に就寝。