いつもゐる人

二月八日(水)晴
通勤の往き帰りに大船駅を使ふ度に、いつも見かける人がゐる。わりと大柄な老人で、リユツクを背負ひ二本の登山用のやうな長い杖を衝いて進む。その姿が何とも痛々しく、気になるのである。足が悪くて普通に歩けないのであらう、ゆつくりといふより、からうじて前に進んでゐる感じで、恐らく一分間に三メートルも進んでゐないのではないかと思ふ。杖を前に衝き、それに体重を預けて引摺るやうにして足を前に運ぶ。遅々たる歩みを、それでも休みなく続けて行く。見てゐるこちらにも必死さが伝はるのだが、それが毎日なのだからどれ程の労苦か想像を絶する。余りに進むのが遅いので、通勤の時間がかなり前後しても大抵見かける訳である。駅周辺に滞在する時間が普通の人の十倍以上はあるであらう。ある時は横断歩道の信号前に立つてゐるのを見かけ、信号が青の間に渡り切れるものかと危ぶむ。ある時は早足で歩く通勤通学の群衆に突き飛ばされて転びはせぬかと危惧する。最近は歩きながら携帯電話やスマートフオンに気を取られて前をよく見てゐない大馬鹿者が多いから、余計に心配である。手を差伸べても助けにはならない様子であり、もし誰かに倒されるやうなことがあればすぐに寄つて起こしてやらうと思ひながらその横を通り過ぎるのだが、幸ひ今のところ倒されたところは見たことがない。多くの通勤客が毎日見かけてゐるはずで、皆がわたしと同じやうな思ひで、せめてぶつかつたり突き飛ばしたりせぬやう心掛けてくれてゐるものと思ひたいが、偶々転倒する場に居合はせないだけかも知れぬ。せめてもの慰めは、大船駅は地上から改札までと、改札コンコースからすべてのブラツトフオームの間にエレベーターもエスカレーターも設置されてゐることで、それがなかつたら、あの老人が出掛けるのは難儀といふより不可能なことだつたに違ひない。ただ、さうであるにしても、ああまでして毎日出掛けなくてはならない老人の境遇を考へると気の毒には思ふ。もちろん本人が楽しくて出掛けてゐる可能性もない訳ではないが、少なくとも自分だつたらあの状態で出掛ける勇気を持たないだらうと思ふ。
これからの日本はかうした光景が見慣れたものになるに違ひない。一概に悲惨と言つてしまふ方が失礼なのだらうが、ああした足の悪い老人であつても突き飛ばされる危険性が少なくなるやう周りの人間がほんの少しでも気を配るやうな社会であつて欲しいとは思ふのである。