雨の函館

六月二十日(水)雨
朝はゆつくり起き、テレビで颱風被害の様子を知る。朝食後歩いて五分程の市営谷地頭温泉に行き入浴。湯は熱めで余の好みに合ひ、平日の十時過ぎといふこともあつてか人も少なくのんびり湯に浸かるには中々良い温泉である。一度家に戻り、寒いので暖房で暖めた部屋でアイスクリームを食し、颱風の影響か白波の立つ湾曲した海岸線の様子を暫し見下ろした後着替へて出発。市電の終点谷地頭まで歩き、電車で十字街まで行き、赤煉瓦倉庫の一角にある回転寿司屋にて昼食を取る。金森倉庫の赤煉瓦の建物内を幾つか見た後徒歩函館市文學館まで歩く。函館に関係の深い文学者の自筆原稿などを集めた文學館にて、石川啄木に関する展示がメインを占め、後は龜井勝一郎や久生十蘭井上光晴今東光などの説明パネルや原稿の展示である。中で余が最も印象深く見たのは四十一歳の若さで自殺した佐藤泰志の原稿の特異な筆跡で、強い筆圧で直線的な字の造形で綴る手稿は異様な迫力がある。解説を読んで其れが『移動動物園』の作者であつたことに気づく。断片的ではあるが此の作品と作家について何度か聞いたり読んだりした事はあるのだが、今まで小説を読んだ事はない。それが筆跡と展示された佐藤の若い頃からの写真に現れる、急速に老けてゆく姿を見て俄かに興味が湧き、入口の売店で『海炭市叙景』といふ文庫本を買ひ求めた。函館をモデルにした架空の都市海炭市の、作品を書くに当たつて準備されたと思はれる作家による手書きの海炭市地図も展示されてゐたのを見て興味を持つたのである。文學館といふのは大抵よく知られた作家についての展示であるから、其処で初めて知つた作家に興味を持つて其の作品を讀むやうになる事はあまり無いが、今回はさうした事が起こつた訳である。
文學館を後にし、冷たい雨と風の中歩いて宝来町の茶房「ひし伊」にて一茶を喫す。N子がお気に入りの、土蔵を其の儘喫茶店にしたものにて、入口を開けると懐かしい喫茶店の香りがした。同じ蔵の中にある和装の店を覗いた後雨も未だ止まない事もありタクシーにて帰還。戻ると伯母が居り、聞けば谷地頭温泉に行つた後ほぼすれ違ひで來たつたやうで、今までビデオなどを見て過ごしてゐたといふ。今日の夕食の為にほつけを持ち來たる。夕食まで時間があればせつかくなので余が尺八を吹いて聞かす。此の前のI夫妻含め、初めて尺八を聞く人には普大寺虚空の評判が良いやうである。伯母は夕飯の支度の始まる前に元町へと帰つて行つた。何かと世話を受け有難い限りである。
夕食は従つてほつけの焼物なるが、これが絶品の旨さである。東京の人はほつけなど安くてボリウムがあるだけで旨いものといふ認識は低いと思ふが、北海道で食べるほつけは、今まで食べてゐたのは何だつたのかと思ふくらゐ旨い。ところが今回のは其れをも凌ぐ旨さで、聞けばただのほつけではなく根ぼつけといふ種だといふ。満足といふより驚きが大きく、思はずN子と伯母に電話を入れて驚きを伝ふ。雨の為たいした観光はできなかつたが、のんびりと過ごしつつ、温泉にも浸かり旨いものを喰つた良い一日であつた。十時就寝。