青函連絡

六月二十三日(土)陰時々雨
六時起床。直ぐに三人で谷地頭温泉に行き、帰つて軽い朝食。Iさんは別業からの眺望も此の温泉も気に入つたやうで、楽しんで貰へたのは何よりである。また横浜の拙宅に此の秋にでも是非來たいとのことで、此れも楽しみである。知人とは言へ、一日以上仕事を休んで撮影をしてアルバムを編集して呉れるといふ好意は並大抵のものではない。深謝に堪へない。八時頃レンタカーにて空港に向け出発するIさんを見送つた後、今度は自分たちも簡単な旅支度をしてから出づ。谷地頭から市電で函館駅に往き、九時十九分発の臨時特急白鳥の自由席にて青森へ。余にとりて初めての青函トンネル通過である。十一時十九分青森駅着。直ちに竹友会先輩のM内さんに連絡を取ると、仕事が入り二時過ぎまで出られないとの事なれば、まづ駅近くのホテルに荷物を預けた後駅の横の商業施設内で昼食を取り、次いで青函連絡船の八甲田丸に乗船。青函航路を記念して保存された連絡船を函館側と青森側の両方見学することになつた訳である。八甲田丸は摩周丸より一回り大きく、また実際に乗船した記憶があるので一際懐かしく感慨深いものがあつた。順路が整備されてをり、それに従つて歩くだけでもずいぶん多くのものを見られる。貨物やデイーゼル機関車を格納する階や巨大なエンジンルーム、船長の居室や個室の一等船室、そして操舵室まで、興味深く見る。
八甲田丸の船尾
甲板
全景
甲板にも出て、二十七年前の夏を憶ふ。函館山から夜景のひとつとして連絡船の出航の様子を見てゐて、其の進行が緩慢であるとの印象が残つてゐた余は、八甲田丸の甲板に立ちS美さんに見送られた際、もつとゆつくりと別れを惜しむ事が出來るものと思ひ込んでゐた。ところが、実際には見る間に岸壁から遠ざかり、S美さんがハンカチを持つて手を振る姿はあつといふ間に見えなくなつてしまつた。真面目に此の話をすると皆必ず笑ふのだが、美しく優しい姉のやうな存在であつたS美さんとの別れは悲しく、実際其の後に再び会ふ事もなく今に至つてゐる。あの日の気持ちと其れから余が歩んで來た歴史を思へば感慨の少なからう筈もない。連絡船に乗つた事のある数多くの人々と同様、連絡船には思ひ出が詰まつてゐるのである。
其れからアスパムといふ三角形のビルに行き二時から津軽三味線の実演を聴く。三十分の短い時間なるも代表的な曲を演奏。矢張りじよんから節は音楽としての完成度が高いやうに思へた。演奏中既にM内さんの姿を見出し目礼を交す。演奏が終りN子を紹介す。M内さんは息子のY君を連れてゐる。此の四人でM内さんの運転する車に乗り、浅虫温泉まで走り、海を眺めながら入浴の後一旦ホテルまで送られ、六時前に今度は子ども抜きのM内夫妻が車で來たり、奥さんの運転でM内家にも近い居酒屋藪きに移動。日本酒の豊富な店にて、しかも飲み放題である。お薦めの銘柄を一度に一合づつ二種頼み、皆で味はひ飲み比べるといふ趣向である。何せ種類が多いので記憶しきれなかつたが、亀吉、菊駒、喜久泉などを飲み、中では矢張り北雪と如空が余の好みであつた。楽しく飲み喋り、八時半過ぎ店を出て徒歩近くのバーに入る。此処では主にM内さんより余の今後の身の振り方につき叱咤激励の言葉を戴く。学生時代よりの余の境涯の流転や波乱を知悉してゐればこその温かい言葉であり、有難い。持つべきものは良き先輩である。余も今後に向け思ふ処あり。十時半過ぎだつたであらうか、結局すべてご馳走になつた上でM内夫妻と店の前にて袂を別ち、雨も降り始めたればタクシーにてホテルに戻り、直ちに就寝。楽しい一日であつた。N子も青森に來てよかつたと満足げである。