五・一五

七月五日(木)陰
犬養道子著『花々と星々と』読了。五・一五事件で著者の祖父である犬養毅が暗殺される前後の消息は胸をうつものがある。あの事件が昭和の歴史を、と言ふことは即ち我々日本人の命運を大きく変へる事になるのだが、祖父の死が当時十一歳だつた著者の其の後の人生を如何に変へていつたかが、此の本を讀むとよく理解できる。あの日を境に、日本も犬養家も余りにも多くの、そして大切なものを失つてしまつたのだ。そして、此の書によつて、自分が犬養毅といふ人の政治理念や置かれた立場について、極めて通り一辺の知識しか持ち合はせてゐなかつたことに気付かされて愕然とする。
引き続いて読み始めた続編の『ある歴史の娘』の冒頭に、著者が自伝の形で自分が実際に見聞きしたことを書かうとした動機のひとつに、昭和初期の歴史を記述した戦後の歴史書に違和感を覚え、生身の人間の在り方や思ひを無視したイデオロギー的史観を少しでも正したいといふ思ひがあつたことが記されてゐる。「『戦前の歴史を形成した何もかもだれもかれもすべてはまちがつてゐた』といふ、いとも簡単な割り切り」に我慢がならなかつたのである。余は之を読んで同じ思ひを強くした。蓋し近衞文麿の再評価も、余としては同じもやもやした違和感から発してゐると言つて良い。他ならぬ余自身が、戦後のさうした「進歩的」ないし「左翼的」歴史観にすつかり毒され來たといふ反省も含め、戦前の日本人の考へや言動をきちんと讀み直さねばならないといふ思ひが強いのである。其れは、戦前の思想や動向を所謂「右翼」として十羽一絡にして、殆ど思考や分析の対象にして來なかつた自分自身の知的怠慢のせゐもあるが、一方で最近とみに日本人であるといふアイデンテイテイの自覚が強まり、日本の国土、国家、文化への興味関心が強まつてゐることにもよる。また、左翼から見れば詰るところ右翼としか思へないのだろうが、そちらの側にこそ、まともで素晴らしい日本人をより多く見出すやうになつたことも無関係ではあるまい。その意味で余は、近衞文麿に続いて犬養毅を再発見しつつある。戦後の歴史家や評論家による垢にまみれた単純で図式的、或は紋切り型の評価でなく、生身の彼らの足跡を辿りつつ、自分なりの評価をして行きたいといふのが、最近の読書傾向の隠れた目的であつたことに犬養道子の一言が気づかせてくれたやうである。