不易流行

七月九日(月)晴
仕事柄新しい香水の情報を得る為に、アメリカ版のWWDといふ雑誌を目にする機会が多い。其処には当然のことながら最新の女性フアツシヨンの写真も掲載されてゐる。若い頃、フアツシヨンデザインの世界に興味を持つた時期があり、服飾はもともと好きな方であつた。特に巴里にゐる頃は、友人に其の世界の人がゐたお陰で、パリコレのデフイレを観に行つたことも何度かある。其の頃、一九八〇年後半、若かりし余にとつて最新のモードも、デフイレに登場するマヌカン(モデル)も、素晴らしく美しく格好良く見えたものだ。モードの世界が醸し出す欲望の波長と自分のそれとが同期してゐたのであらう。それに引き換へ、WWDに出て來る最新のデザイナーによる奇抜なフアツシヨンも、登場するモデルの容貌や姿形も、今の余には全く良いものに映らない。服には美的センスを感じないし、モデルも珍妙な顔ばかりである。恐らく、もう自分の感性が時代のそれとは合はなくなつてゐるのであらう。一方、昔は格好良いと思つてゐた八十年代や九十年代のフアツシヨンを今改めて見てみれば、多少なりとも野暮にもダサくも感じられるのも事実であり、かうした経験を積んだ果てに、流行といふものへの無関心と、世の流れとは無縁な己のフアツシヨンセンスへの固執といふ形へと行き着くものなのかも知れない。さうなれば、所謂「洋」服なるものよりも、和の服=着物に回帰するのも考へられる必然のひとつといふ事にはならう。或いは原因と結果が逆だらうか。着物の美に目覚めたが故に、パリやNYの最新モードに眉をひそめるやうになつたといふことも考へられぬことではない。