存在と他者

七月十日(火)晴
『ある歴史の娘』読了。読み応へのある一冊であつた。あれだけ感受性が強く、しかも同時に冷静さと率直さと知性をも持ち合はせた少女が、あれ程の人物たちに囲まれて育ちながら其の影響を受け、そしてあんなにも激動の時代を生きて行く中で、悩み抜き惑ひ苦しんだ末に辿り着いたのが基督教の神であつたとしたら、基督教嫌ひの余であつても、道子さんの得た心の平穏さを素直に祝福もし、またその生き方に心から敬意を表したいと思ふ。ひとりの女性の精神的な人格の形成史として、昭和史や日中関係の秘話を伝へてくれる書として、大変有意義な讀書であつた。
日本と中國、日本人と中國人を考へる上でも多くの示唆を得た。日本人が刻んでしまつた愚かで恥ずべき歴史を、忘れるべきではない。好い処もたくさんある此の国と文化を愛すればこそ、戦前の軍国主義日本に至つた日本人の醜い心性を我が身に引き当てて痛みとして持つべきであらう。自虐史観などではなく、ごく真当な羞恥心に属する感じ方である。勿論、だからと言つて現在の中國の反日行動に理や義があるとも思へないのも事実だが、ふたつは別箇のものとして受け止めるべきであらう。
それと同時に、明治の開国から太平洋戦争に至る、日本人の間にあつた様々な思想や考へ方と、それらが歴史の力学の中でどう働き、或は機能しなかつたかについて、自分はもつともつと知らなくてはならない事が多いことに今更ながら気づかされた感がある。所謂、近代日本の精神史といふ処だらうが、それと同時に道子さんが悩み続けた己の存在といふものの不思議さについても、余はまだ何も解決を得てゐないのであり、其方についても今まで以上に喫緊の事として、探究せねばなるまい。