奇遇の讀書

一月十一日(日)晴
『伊澤蘭軒』を讀む事久しく、漸く其の終盤に差し掛かつた。『頼山陽とその時代』を讀み繼いでゐた時分に、突如此の書を讀みたくなつて鷗外全集當該巻を買ひ求めた。無知とは恐ろしいもので、讀み始めて直ぐに、蘭軒と山陽、そして菅茶山の縁が淺からぬ事を知つて驚いた。そして、一方で進めてゐる井岡道安を廻る調べ物の中で江戸漢方醫學の概要を辿るうち多紀家の事跡に到つた。多紀家も蘭軒や其の子息榛軒・柏軒と關係が深い事を、鷗外の史傳に教へられたのは其の直後のことである。そして本日になつて、『伊澤蘭軒』の中に三輪善兵衛の名を見出した。善兵衛は丸見屋の主人、丸見屋は余が其の評傳を爲しつつある高砂香料創業者甲斐荘楠香が最初に奉職した、ミツワ石鹸を作る會社である。鷗外の書によれば、善兵衛は蘭軒や柏軒手澤の醫書を含む古醫書の寄贈を鹽田といふ人に求めたとの事だが、その目的は大正四年に丸見屋が創設した研究所の圖書室に架蔵する爲であつた。其の研究所こそ、設立と同時に楠香が香料課長として働くことになる、丸見屋試験部化学研究所だつたのである。此の奇遇は余をして喜ばしめた。楠香の評傳はやつと大正二年に歐洲遊學を終へる邉(あた)りまで進み、今は歸國後の丸見屋時代の資料を集める段階に來てゐたからである。もとより、定説を覆すやうな発見ではないが、其の時代の雰囲氣を傳へ、また善兵衛の研究所設立時の志の高さを知るに足る小逸話として珍重したいと思ふ。
また、蘭軒その三百二十四の段に至つて、鷗外が其の祖父と父、そして鷗外自身の森家三代の醫の學統を陳ぶる處を讀んで甚だ興味深く感じた。祖父綱浄は傷寒論を重んじて古方派に近く、父は蘭方醫に轉じ、鷗外は勿論西洋醫學に移つた。時代の推移が三代に渡つて其の據るべき醫の學統を替へさせたのである。此の變轉の意味を理解するのに、道安に近づく爲に學んだ、江戸時代の醫學史の知識が役に立つたのは言ふまでもない。
話は全く變はるが、最近岩波國語辞典第七版新版を買つた。高校時代から岩國を愛用してゐたが、大學の頃には表紙も取れてボロボロになつて、其の後轉居を繰り返すうちいつの間にか失つたもののやうである。其の間に三省堂新明解を常用するやうになり、それがもう十年以上續いてゐる。しかるに、先日甥が遊びに來て、立教の附属中學から此の春高校に進むに當り、祝ひとして國語辞典を贈ることを約した。言葉に親しみ正しい日本語を話す爲に、辞書を繰ることの大切さを教へたかつたのである。其の時念頭にあつたのは岩波の方であつたが、考へてみると上述の如く余は最近それを使つてゐない。では新明解にすればいいかといふと、其処にも若干の逡巡を禁じ得ない。そこで久しぶりに岩波國語辞典を購入し、暫く併用して良いと思つた方を買ひ與へようと思つたのである。だから最近は語を調べるのに必ず二囘辞書を引いてゐる。今までなら引かずに済ましたやうな言葉まで引くので、結果として自分自身の勉強になつてゐる。