秋の氣配 

十月二日(火)陰
朝通勤で驛に向かふ道で今年初めて銀杏を見る。昨年であつたか街路樹として驛までの道に並ぶ公孫樹の枝がここまでやるかと思ふ程無殘に伐り落とされたにも關はらず、僅かに殘つた枝に葉を繁らせ、かうして實まで落とすやうになつた。植物の生命力を改めて感じる。いたち川べりの道脇にも夏から様々な草花が繁茂しては立ち枯れて又新しい草花へと移り變はる。今は丁度赤まんまが元氣よく生え誇つてゐる。背後には秋の園といふより他ない、名も知らぬ雑草が折り重なり、さながら琳派の秋草圖を見る思ひである。
ところで、此の日乘、舊漢字といふか正漢字の割合を余の習得に從つて増やしてゐるが、其れにほぼ反比例して頁を見に來る人の數が減つてゐるやうだ。まあ、余の書くものなどを面白く讀んでくれる人などさう多くはあるまいから、今くらゐが丁度良いのだらうと思ふ。舊仮名遣ひを解する良質の讀者だけが殘つてくれる訳だから有難い限りである。變なのが來ても困るので、なるたけ検索にかからぬやう、時事用語や流行語の使用は慎んでゐる。又、片仮名語も促音や拗音を小さく書かなければまづ見つからない。公開のブログである以上見る者拒まずは當然だが、最近の閲覧數ですら余にとつては意想外の多さである。まあ、これで結構氣にしてゐるのだが、一日に五百を越えるやうな事があると何かまづいことでも書いてしまつたかと慌てる。知人の中で讀んでゐることを知つてゐるのはせいぜい二十人だから、後は全く余を知らぬ、そして余も知らぬ人々であらう。無責任なことを書くつもりはないが、時々一寸恐くなる。