子規を想ふ 十月朔日(月)晴

柴田宵曲『評傳正岡子規』讀了。余が子規を夢中で讀んだのは大學四年後半から就職して一年目の秋頃までの事であつたと思ふ。岩波文庫で『飯待つ間』『松蘿玉液』『墨汁一滴』『仰臥漫録』『病牀六尺』などを面白く讀み、子規の生涯の凄みと痛ましさに胸を打たれた。意氣と野心、大望を胸に、才氣に溢れながら志半ばに逝く姿に言葉にならぬ不憫さと、運命の冷酷さに對する恐れを感じずにはゐられなかつた。其の後短歌に関しては多少見解を異にするやうになり、俳句からも遠ざかつた為子規の著作に接することも殆どなくなつたが、それでも上野公園の一角にある野球場に正岡子規記念球場の名が冠されてゐることを見い出した時は涙が浮かぶ程嬉しく感じたし、根岸の子規庵を訪ねて子規が硝子障子越しに見た庭の姿を眺めてもの思ひをしたこともある。いつも子規は何か氣になる人であつたのだ。それが俳人荷風から芋蔓式に小波、鳴雪から子規に至つて、俳諧への興味が復活したこともあり、再び子規の俳論、俳文、實作への関心が強くなつてゐる。それで早速當時買はずにゐた『俳諧大要』を今日註文す。又、宵曲の評傳により子規の小説『花枕』が、光と匂といふ名の神の子を主人公にする旨知りたれば、此方は所有するものにていづれ讀んでみやうと思ふ。三十六年に滿たぬ生涯の、密度と無念さとを想ふと、何とも形容し難い氣持ちになる。それでゐて書かれたものはあけすけで明るく、筋もちやんと通つてゐるし、ユーモアもある。余は『坂の上の雲』を讀んではをらぬが、とても司馬某の能く描き得るやうな安手の人物ではないと斷言する。
 颱風一過の朝、何の混乱もなく出勤。帰途空を眺むれば十六夜の月薄雲に掛かりて朧なれば、
  颱風の吹き殘してやおぼろ月 ―冽仙