颱風接近 

九月三十日(日)晴後陰夜になりて風雨強まる
七時起床。着物にて九時半驛前の地球プラザなる施設に赴く。家人が参画する日本語を教へるボランテイアの會の、生徒によるスピーチ大會が開催され、幕間の余興として余が尺八を吹く事になつたのである。華人、越南人、蒙古人などの生徒の拙い日本語を聞き、十一時少し前より大和樂と雲井獅子を吹く。晝まで殘りてスピーチを聞き、懇親会に顔を出してから徒歩歸宅。未だ雨降らず。夕刻復た午睡。通信を書かんとするも氣分乗らず、此の日落手せし露伴全集第二十巻評釈冬の日を讀む。評釈芭蕉七部集の猿蓑を讀まうとしてよく見ず註文したところ、七部集の違ふ巻を扱ふ巻が來たもの也。それにしても露伴全集の此の巻が八百圓、移送費を除けば僅か五百五十拾圓で手に入るのである。歓ぶべきか、寧ろ悲しむべきか。孰れにせよ此の秋は俳諧と三味線に親しむ事になるは確實也。
夜、仙台に往きし義妹が送り寄こしたる白謙の笹蒲鉾を肴に麦酒を呑む。余は初めて食するにその旨さに驚く。家人の實家では皆此の家の笹かまを賞味すと云ふ。味はひ、食感の絶妙なる、他の追随を許さざるもの有り。
十月末に中學の時の同窓會が開かれる由の案内を貰つてから久しいが、未だ行かうか行くまいか決め兼ねてゐる。三・四人会ひたしと思ふ人の無きにしもあらねど、彼等が参加するや否やも知れず、何せ卒業以來三十五年ぶりの初めての開催なれば他の面々は特に会つて話すことも無きやうな心持ちす。中學の同級で今も附き合ひのある者一人も無し。今話題のいぢめを受けた訳でも、勿論いぢめた事もない乍ら、余にとりて余り良い思ひ出のない時期たりしは事實なり。未熟さと自意識過剰と虚栄心や感傷などの織り交つた混迷は誰しも似たやうなものならんとは思へど、思ひ返すだに心の隅々に痛痒き事のみ多し。まして女といふものの酷薄さを身に染みて思ひ知らされたるも此の頃にて、懐かしさよりも苦さの先立たん事を恐れる氣持ちもあり。小學六年時のクラス會は是と異り何ら屈託なき親しさ懐かしさで皆に接し得るも不思議と言へば不思議なり。