夢の部屋 

十月十八日(木)雨後陰
未明激しい腹痛に目を覚まし厠に駆け込み呻吟する事小半刻に及ぶ。恐らくは晝に食せし咖喱と夕食後に食べた賞味期限切れのヨーグルト、そして夜半暑くて布団を退けたまま眠り腹を冷やしたせゐであらう。國禁を破つて異國のものを食べた天罰かも知れぬ。余、生來蒲柳の質にて胃腸弱し。齢半世紀を越え、平常身を慎み節制を為すも斬くの如き有様なり。余命幾許も無からん。悲しむべし。
其の後再び寝入つて見た夢に巴里に行く。昔住んでゐた十五区のアパルトマンに入り古めかしいエレベーターに乘ると仏人女性も後から乘り込み余が何階ですかと仏蘭西語で聞くと二階だと言ふのでボタンを押すが、余の住む三階を先に押してあつた為に通過してしまふ。余はtrop tard!遅すぎましたねと云ふ。實際に住んでゐた部屋とはかなり様子が異なるのだが、夢に出て來る限りはいつもよく似た部屋で、しかも必ず久しぶりに歸り着いて中に入ると前に住んでゐた人の荷物が、さらにその前に余が殘した荷物と倶にあるといふことも共通してゐる。今囘の先住者は日本人だつたやうで、それも理工系の大學教授であつたらしい。關西出身で實家は芦屋邊りの高臺に在る豪邸で、余は其処に以前の夢の中で行つたことがあるといふ記憶がある。
余の部屋は角にあつて二面が大きな窓になつてゐて明いのだが風が強くガタガタ鳴つてゐる。窓邊に立つと下の階のバルコニーに先程エレベーターで一緒だつた女性の姿が見えた。余は一瞬辛い過去を思ひ出し、違ふホテルに泊まつてゐるN子と離れ離れになつた淋しさを感ずるが、次の瞬間には其のN子が部屋にゐてほつとする。ところが直ぐに隣の部屋で電話をする声が響いて吃驚する。壁の薄さに因るのだらうが、隣は日本人の男性でやたらに声の大きい現在の余の上司にそつくりな声であつた。昨夜家人がテレビジオンでNHKの仏蘭西語講座を見てゐたから見た夢であらう。今では實際に住んでゐた部屋よりも、夢で度々訪れる此の部屋の方が懐かしい氣がしてゐる。