浪曲について

一月十五日(火)晴後陰
『定本日本浪曲史』を読んでいて、正岡容も実は最初浪曲を嫌っていたことを知った。まあ、文人や作家、知識人に浪曲嫌いは少なくないから驚きはしない。漱石尾崎紅葉泉鏡花芥川龍之介それに荷風浪曲嫌いで有名だ。その辺のものを読んできた昭和の文学少年は、銭湯で浪花節をうなる老人の記憶も相俟って浪曲を低俗で古臭いものとして毛嫌いするようになる。私も同様であった。正岡容浪曲を薦めたのは金子光晴だという。正岡と金子光晴が友人であったことも初めて知って驚いたが、この話は興味深い。是非木村重松を一度聞いてみろと薦められて聞いた正岡があれだけ浪曲にはまったのだから、ある意味金子光晴浪曲界の大恩人である。顕彰されてもいいくらいだ。あらためて金子光晴に対する尊敬の念を強くする。もちろん、好き嫌いはあるだろうが、浪曲をまともに聞いたこともないのに嫌う場合にそこに偏見や思い込み、差別意識が染みついていないかどうか、一度みずから胸に手を当てて検証すべきだろうと思う。今の私は、むしろ漱石を読んだくらいで明治の日本人をわかったつもりになる方がよほど浅薄に思える。大衆演芸に触れずに、大文字の文学を読んで来ただけで、明治以降の日本人や日本の文化を語ることが如何に片端であるかを思い知る。圧倒的多数であった庶民の情念や感情の論理は、漱石ではなく浪曲や大衆文芸の世界によってのみ伺い知れるものなのではないか。少なくとも漱石や鷗外、露伴から荷風、谷崎を愛読しつつ、浪曲や落語に通ずることの方が、今の私には格好よく思える。また、浪曲ではないが、明治の作家や詩人たちが如何に義太夫文楽に魅せられていたかを、樋口覚の『三絃の誘惑』を読んで知り、驚いたことも記憶に新しい。中江兆民正岡子規、木下杢太郎、北村透谷に二葉亭四迷谷崎潤一郎と、義太夫と三味線の音色に心を奪われた者の何と多いことか。その辺の音曲に対する好みや感性を考慮せずに明治の作家を論ずることの疎かさを感じずにはいられない。
ところで、正岡容は桃中軒雲右衛門を余り好きではなかったようだ。雲の事大主義が嫌だと言っている。玄洋社の喜びそうな事大主義に対しては私にも嫌悪感がある。頭山満一派というのは贔屓目に見ても碌な連中とは思えないし、その支援を受けて成功の糸口をつかんだ雲も、芸を除けば余り好きになれるような人間ではない。いや、芸にしたところで、ユーチューブで聞く雲の浪曲は音質が悪いせいもあるが何とも気味の悪いものであった。何故あれが一世を風靡したのか、どこが良かったのか、この先いろいろな浪曲を聞くことでその辺が理解できれば面白かろうと思う。そうそう、ユーチューブで見つけた、成瀬巳喜男監督で月形龍之介主演の映画『桃中軒雲右衛門』も見てみたが、正岡も言うようにとても雲が言いそうもない台詞が多くてこの映画を見ても明治という時代を感じ取ることはできない。昭和十一年の作品だが、明治人の心情を昭和の人間の言葉で語っている。まさに明治は遠くなっていたのだが、考えてみると明治が終わってから昭和十一年までと、昭和が終わってから今までとは、四半世紀というほぼ同じ年月が経っている。昭和も彼方に霞みつつあるものなのかもしれない。平成の世に明治にこだわる昭和生まれの私など、銭湯で虎造気分で石松代参をうなる爺のような存在なのであろう。
話は変わるが、ユーチューブで見る限り、説経節もやはり浪曲の起源のひとつに思われるのだが、今日演じられる説経節の節は、果たして本当に古体を留めているのだろうか。説経節は先にテキストで読んでしまったのだが、それでもその世界に魅了され、それ以来音曲としての説経節はずっと気になっている。さらに祭文や阿呆陀羅経あたりと浪曲との、実際の音楽的なつながりや違いはどういうところにあるのだろう。まあ、この辺の興味関心となると、やはり大衆娯楽としての浪曲の聞き方とは違ったものにはなるのだろうが、私の興味はまさに「語りもの」のフシとタンカの、音楽と言葉との共犯関係にあるのだから仕方がない。宮崎滔天の『三十三年の夢』を読んで滔天と雲右衛門の関係を知り、浪曲について知りたくて最初に読んだのは兵藤裕己の『<声>の国民国家』だが、同じ兵藤の『太平記<よみ>の可能性』も読み始めた。太平記、すなわち講談の源流である。講談と浪曲も、反目した時期もあったようだが、中々一筋縄ではいかない因縁がありそうである。