震災、そして中村研究所

九月二日(月)晴
今日、あまちゃんでは3.11の震災が起こった。昨日の9.1が月曜なら、関東大震災90周年と重なった訳で、インパクトという点では一日ずれて残念な気もする。というか、昨日は90年の記念と記憶をすべき節目だったというのに、世の中では大して関心がないように見えた。一昨日「風立ちぬ」を見た夜、NHKで震災を取り上げた番組があって、東大の地震学者今村明恒助教授(当時)の奮闘を知った。番組の中で震災直後に撮影された動画が流されたのだが、そこに映る町並みや人々の服装、そして歩き方といったものが、見て来たばかりの宮崎アニメの世界にそっくり鮮明に再現されていたことに改めて気づかされ、感動を禁じ得なかった。帽子をかぶった着物姿の中年男性が、裾をはしょって両手に風呂敷包みを提げて歩く様など、今は見ることのできない人々のしぐさであろう。地震によって失われたものと、時代の移り変わりが奪い去ってしまったものとが重ね合わされているような気がして、今になってあのアニメーションの画面が胸に疼くような感触をもたらし、脳裏に様々なシーンが蘇る。「いつ」かは知らないけれど、必ず次の大震災が起こることを知りつつ、我々は今を生きている。九十年前と二年前の記憶を重ねながら、一方で放射能を垂れ流す会社を制裁することも制御することもかなわずに、「次」に怯えつつ生活していること、…これは火山噴火や疫病や地震や台風や旱魃・飢饉の脅威に常にさらされて来た、いにしえからの日本人の生き方とそう変わりはない姿なのだろうか。それとも、今のわれわれの状態を正しく示す言葉を持たないだけで、全く未曾有の状況にあるのだろうか。私には、その問いに答える知恵も覚悟もない。望みは本当にアキちゃんにしかないのである。

飄眇亭通信を読んでいない人には全く何のことだか分からないだろうが、中村研究所の設立年に関する新たな資料を発見したので報告しておく。通信88号で、中村研究所の設立年の推定を1915年から1918年としていたが、1917年12月5日付けの大阪毎日新聞に、東京にある工業関連研究所として理化学研究所と並んで「中村精七郎氏の中村工業所」との記載があり、これは前後の文脈からして明らかに中村研究所を指すものと思われるので、設立年に関しては1917年までが妥当であると訂正したい。今後は「大田区史」を閲覧することで調査を進めたいと考えている。