カタカナガキキラヒダ

十月十一日(金)晴
映畫のタイトルやバンドの名前、其れから廣告のコピー等で、外來語を表記するのではなく普通の日本語文を片仮名で書くものをたまに見かける。余はあれが堪らなく嫌ひである。アカルイミライだのツナガルチカラだのといふ文字列を見ると吐き氣がするのである。ニイタカヤマノボレを憶ひ出すからといふ訳でもあるまいが、此の嫌悪感が何に由來するのかは自分にもよく分からない。外來語を片仮名にするのは全く問題ないし、送り仮名や助詞を片仮名にした、例へば谷崎潤一郎の『鍵』や、漢文の読み下し文のやうな場合はそんな嫌な氣にはならず、むしろ獨特の雰囲氣が出るので自分でも試して樂しむこともあるのだが、唐突で不自然な如何にも恰好つけるつもりで片仮名を用いるのは全く駄目である。英語を始めとする外來語を片仮名にする際は、表音文字から表音文字への移し換へであるから許容し得るが、大和ことばや漢語では音が深みや意味の拡がりを持つてゐるのに、片仮名にすると實に薄つぺらな音の連なりにしかならず、其れが堪へられないのである。輕薄で氣取つてゐて、馬鹿げた品の無い言葉(文字)遣ひであると心から思ふ。
反對に外來語を平仮名で表記することは、余りくどいと煩(うるさ)くなるが、たまに見る分には其れ程嫌ひではない。詩文では獨特の語感が出るし、柔らかさが出る。カッターは硬いが、かったーはほんの少し鈍(なまく)らである。