大雪

二月八日(土)雪
昨夜から降り始めた雪が朝の段階で既に道を埋めてゐたので、尺八稽古他此の日外出の予定をすべて諦めて終日家にて過ごす。
先日解讀した明治四十五年の繪葉書の文章を下に掲ぐ。

1912/6/13 京都市竹屋町新椹木町上ル 甲斐荘彦子殿
六月十三日 Vernier村ヨリ楠香
五月二十四日付ノ御手紙拝見其許始め皆々相変リモナク健在ノ趣キ何ヨリ安心仕リ候。小山ノ春日氏來京ノ由嘸(さぞ)賑カナルコトニ存ジ候。二十一日ノ誕生日ハ心ヨリ祝ヒクレタル程ハ申ス迠(まで)モナキコトナガラ遠クナガラ喜ビ申候當地ニテハ只今ノ書生生活別ニ一人ボッチ誕生ヲ祝フ程モナケレバ誕生日ハ知リツゝモ相変ラズ同ジパント同ジ御料理ニテ口吻ヲ満足セシメ置候。氏神祭禮ノ日ハ中西家ニ招カレタル由嘸盛ナリシコトト蔭ナガラ御察シ申上候。紅裙ノ招待久シ振物珍ラシカランカト推察仕リ候。当方至テ健在、週日ハ毎日会社生活ニ身ヲ香水、日曜ハ相変ラズ郊外ノ散策ニ日ヲ送リ居リ候。京都ノ生活其許之氣ニ入レルコトハ何ヨリト喜ビ候。

其許は「そこもと」と讀み二人称で、要するに相手の妻彦子を指す。これだけでも時代を感じさせる。候文ではあるが妻に宛てたものだけに敬語が重ならないので讀み易い方であらう。嘸(さぞ)や迠(まで)の字も今日殆ど使はれない。
瑞西ジユネーブに近いヴエルニエに轉居してすぐに、五月二十一日の楠香満三十二歳の誕生日を祝ふ妻彦子からの手紙に接した楠香が送つた葉書である。彦子は畫家で楠香の弟甲斐庄楠音出世作『横櫛』のモデルになつたと言はれる女性。前年の秋に體調を崩して入院した後も、赤坂の親戚馬場宅に滞在してゐたらしく、楠香からの繪葉書も長らく赤坂宛てであつたものが、此の葉書の宛先と文面から、此の暫く前に京都に戻つてゐたことが知れる。
氏神とあるのは京都の住所からすると下御霊神社であらう。下御霊神社の祭禮還幸祭は五月十九日であるから、五月二十一日付の手紙に其の事が書かれてあるのは自然である。紅裙とは赤い裙(すそ)のことで、藝者や美人を指す。前者であれば招かれた中西家に藝者が來たことになり、彦子にとって物珍しいといふ意味になり、後者だと美人の彦子が中西家に行つたので物珍しがられただらうといふことになるが、恐らく前者であらう。