《江の島のあまちゃん》

九月十六日(火)

下記は余の個人誌にて書きたる文章なるが、配信するも何の反應もなく、余りにうたてき事なれば、寧ろこれを広く讀まれる場に供するに如くはなしと思ひて載せるもの也

最近、江戸後期から幕末にかけての医者や本草家、蘭学者に興味を持ってあれこれ調べている。本来異なる専門ながら、漢方医学本草学、蘭学という三つの領域はきわめて密接にかかわり合い、医者にして本草家、さらに蘭学を修めて西洋医学のみならず物理、化学、地理や天文学に通ずる者も少なくなかった。一番興味を持っているのが、美作津山に縁の深い、玄随に始まる宇田川三代や箕作家、久原家周辺の人びとや、稲生若水―松岡恕庵―小野蘭山という、本草学の流れの中にいる木村蒹葭堂や飯沼慾斎、あるいは坪井信良や藤井方亭といった医師たちである。
それらと関連して、幕府や大名家の御典医や侍医、藩医といった人々や制度にも関心を持ち、いろいろ調べていると『解体新書』の訳出に加わった甫周はじめ桂川家の人々の名前がしばしば出てくる。そういえば桂川甫周の娘今泉みねの回想記『名ごりの夢』(東洋文庫)を昔読んだことがある。もっとも、こちらの甫周は七代目で、蘭学の先駆者で四代目の甫周よりずっと後の人だが、成島柳北箕作秋坪が出てくることもあり、わたしには興味の尽きない本である。それで、ちょうど良い機会なので読みかえすことにした。個々の話はすっかり忘れているのに、その語り口からはのんびりとした江戸の雰囲気が感じられ、初めて読んだ時にも感じていたに違いない、不思議な懐かしさがよみがえってくるような気になる、楽しい読書であった。
中に、みねの叔母で甫周の妹香月が江の島に出かけた時の話がある。甫周の偉業のひとつ、オランダ語の辞書『和蘭字彙』(「ズーフハルマ」の名で知られる)の上梓も手伝ったというこの香月叔母は、疱瘡のあばた面であったことから嫁にも行かずに桂川家につくした人だったという。その人が、一生に何度もなかったであろう遊覧の旅の先として江の島を選んだのである。今でこそ江戸からも気軽に行ける場所ではあるが、当時それなりに格式のある将軍家奥医師の家の女性が物見に出掛けるというのは中々たいへんなことであったようだ。甫周の弟子の奥さん連中や腰元、供まわりの者を連れた一行で、香月女史はもちろん駕籠に揺られてのご出立である。結局、一か月がかりで戻って来たというから、江戸の女性にとって江の島というのは、心理的にはかなり遠いところに感じられていたのだろうと思う。
さて、築地の桂川邸に戻った香月叔母、姪のみねに貝細工の屏風や蝶貝をちりばめたお文庫などをみやげとして買ってきてくれた。今でも土産物屋で売っていそうな、それほど精巧とも思えぬ細工であろう。それでも当時は珍しかったのか、桃の節句にその屏風を飾ると(と言うことは、ひな人形向けのおもちゃの屏風ということになる。当然ではあろうが)、「お屏風拝見」といって見にくる人もあったという。江戸時代の人たちというのは本当に可愛らしいことをするものである。
貝細工の他にも、みねにとっては香月叔母のみやげ話は楽しみだったようだ。叔母は海辺の気候が気に入ったようで、「浜風はいいよ。浜風は」としきりに言っていたらしい。江戸のお屋敷生活の息苦しさが逆に想像されるような話である。また、香月叔母はさざえとりの海女の様子をとても気に入っていたという。
なんと、江戸時代には江の島に海女がいたのである。
これにはわたしもびっくりした。知らなかったということもあるが、それ以上に映画『ホットロード』を思い出したからである。それは今年の夏封切られた能年玲奈主演の映画で、その中で能年は江の島の近くに住んでいる設定なのである。すなわち、昨年の連続ドラマ「あまちゃん」で北三陸の海女の役を演じて日本中を魅了した能年玲奈が、まったく違ったキャラクターを演じるために選んだと言われる映画のロケ地江の島では、実は江戸時代に海女がウニならぬサザエを採っていたということになるのである。
この偶然というか、不思議な縁はわたしを喜ばせた。江の島のあまちゃんである。
それにしても、江の島の海女のすがたを伝えるみねの語り口がまたいい。

また、さざえとりの海女の飾りっけのないそのままな様子がかえってお気にいった
ようでした。袖なしのじゅばんのようなものと、藁か海ぐさでこしらえたみじかな前
掛のような物を巻きつけてるほかは、なんにも身につけないで、
水の中をくぐったり、岩の上で潮風に吹かれたりして、
なにか言葉をかけてみても通じないらしく、
ただ頭を下げておじぎばかりしているその鄙びた素朴な動作は、
おのずから風流にも思われてよかったのでしょうか

あきちゃんのそんなすがたを見てみたくなる描写ではないだろうか。
ところで、言葉が通じない、ということで思い出すことがあった。尾崎紅葉の小説『男ごゝろ』である。その中に京子という少女が出てくる。東山公恒という華族の娘なのだが、公恒が妻のお類が京子を残して早逝してから世をはかなみ、江の島の対岸相州片瀬村に隠棲して以来そこで育った。父親は何もする気力がなくなり娘の養育にも全く気も金も遣わぬという偏屈ぶりを発揮したおかげで、生まれの卑しからぬ京子も「心性次第に鄙(いやし)う成下り、挙止(たちゐ)もあらあらしく、言葉(ことば)に此辺の訛(なまり)交」りになってしまう。幕末と明治の違いはあるが、「都へは遠からねど相模国の浜辺の小村は、色黒き男、裙褰(すそから)げたる女の往来多」い、江戸の言葉も通じかねる辺鄙なところと思われているのが面白い。今でも日に焼けた若者達や、惜しげもなくビキニ姿で駅前を歩くギャルも多く、彼等の囀(さえず)ることばは私には理解不可能なことも多いから、考えてみれば昔も今も同じなのである。
話変って桂川家は、江の島ならぬ「江島」にも縁が深いことも、まあ事のついでに過ぎないが紹介しておこう。江島とは、言うまでもなく「江島生島事件」の江島である。
大奥御年寄江島が寛永寺増上寺に代参の後、歌舞伎役者生島らと宴会を開いて帰参が遅れて門限に間に合わなかったことに端を発して、大奥の風紀の乱れを粛清すべく関係者何と千四百名が処分されたという事件で、時は今からちょうど三百年前の正徳四年、七代将軍家継の時代である。大奥御殿医の奥山交竹院も連坐して御蔵島(みくらじま)に島流しになった。御蔵島伊豆七島三宅島の南方にある、中央の山から海へと傾斜が続き平地がほとんどないという過酷な島である。
交竹院は環境の厳しさを知るとともに、島民の要請もあって江戸から御蔵島への直接の回漕船航路の許可を得られるよう画策し、奥医師時代の同僚であった桂川甫筑に相談する。もちろん、甫筑は桂川甫周の祖先である。甫筑が幕府中枢に働きかけ、それが実現したことに感謝した島民は、交竹院と甫筑、それともうひとりを祀る三宝神社というのを創建してその功に酬いたという。
その御蔵島から、年に一度、許された回漕船で交易のために江戸に出た村民の代表が、桂川家に来ては椎茸だの薪だのをたくさん置いて行ったことを今泉みねは記している。遥か昔の恩を忘れぬ純朴な人々のすがたは幼いみねの目にも印象深いものだったようだ。「手織木綿かなんかの縞のきもの」の「口つきから色の黒さから一見都離れした島の男」は、桂川家の当主に「殿さまあ」と呼んでひざまずき、持って来たものを献納したという。返礼に酒を出すと「もったいねい、もったいねい」と言って盃をおしいだく。維新後になってもその習慣は続いたらしく、幕臣であったが故に明治になって零落して狭い家に移った桂川家にもはや薪を置いておく場所もなくなってさすがに止んだという。
江の島の海女とも通じる、江戸時代の庶民の粗朴さを感じさせてくれる話である。(了)