軍門に下る―或は「熟慮」と「節度」

七月七日(火)雨
出張の歸り有樂町で降り徒歩銀座に出て買物を爲す。憚り乍ら、竟に余もマツク軍団の軍門に下りアイパツドなるタブレツトを購入したのである。流石にデザインは洗練を極めるが、操作や表示、キーの配列など慣れぬ事も多く、この日はやつと家のワイヤレスネツトワークに繋ぐだけで疲れ果てた。スマートフオンは持たぬ事に決めた爲タブレツトを持つ必要性が出て來た譯である。自分のしてゐること、しようとしてゐることに、かうした道具がどれ程有用かは量りかねるところではあるが、頑なに拒むのもどうかと思ふし、要は使い様であるから、まづは落城である。
電子機器によつて便利になつたことは確かである。四十年前ではSFの世界での生活様式が今や當り前になりつつある。ただ、電子機器を使つたコミユニケーシヨンの利点ばかりが持て囃されてゐるが、果たして其処で行はれてゐる情報のやりとりといふものが本當に価値のあるものなのかと言へば大いに疑問である。メールにしてもネツト上への発信にしても、今の電脳、電子コミユニケーシヨンに決定的に欠落してゐるのは、「熟慮」と「節度」ではないかと思ふ。たとへば手紙とメールを比較してみる。手紙では書いたものはそのままでは手許に殘らないから、下書きか写しを殘すことが多い。その間に何度か自己検閲が入るから、文章の表記や表現も、思ひつきで打つことの多いメールよりは訂正・修正の機會が多く手直しが可能である。その間には、感情だけで書いてしまつた文章を見直すことによる節度も生まれやう。そして、手紙を折り封筒に入れ、宛先を書いて投函するまでの一連の手續き・動作そのものが、ひとつの節度となるのではないか。曲がりなりにも身錢を切つて切手を貼つて出す際にしても熟慮は働く。かうした節度と熟慮の機會を一切省いてしまふのが電子メールであり、その利便さと弊害とをきちんと了解しておかないと、人間が最も大切にしなくてはならないことの幾つかを失つてしまふのではないかと思ふのである。
と言ひながら、その文章をキーボードで打つて自分のブログといふネツト上に挙げることの矛盾を感じない譯ではないが、私なりの熟慮は經た積りではある。果たして節度を保てたかに就いては讀者の判斷に委ねる他はあるまいが。