九月三日(木)隂

朝六時起床。七時にホテル前にタクシーが来てリヨン駅まで行く。構内のカフェで朝食を取る。食べていると私のスーツケースを引いた人が来て、お前のか?と聞くので訳も分からず頷くと置いて去った。どうやらコーヒーを持ち砂糖を取った際にその場に忘れていたようだ。それを店の人が持ち主を尋ね歩いてくれたらしい。状況がすぐにはつかめずお礼も言わなかった。かつての自分では考えられない失態第二弾である。
8時2分発のTGVに乗ってディジョンに。駅の荷物一時預りにスーツケースを預ける。11ユーロもする。徒歩旧市街へ。まず甲斐荘楠香が一時住んでいた住所に赴く。中心にある広場にも近い、雰囲気のある通りである。この町で楠香はフランス語を一生懸命学んでいた。寓居跡の目の前にKENZOのブティックがあるのも、百年前に一人の日本人がここに住んでいたことを知る者にとっては興味深い。
リベラシオン広場や周辺の教会を見ながら旧市街を散策する。小さな都市だが雰囲気があって好きな町のひとつになった。途中名物のマスタードを土産に幾つか購う。それから急ぎ駅に戻り、荷物を取ってサンドイッチを買って12時過ぎの電車に乗る。駅前では若者が殴り合いの喧嘩をしていた。
13時50分にParay-le-Monialという駅に着く。ブルゴーニュ地方の田舎町である。駅まで知人のKさんが迎えに来てくれた。Kさんは日本人だが奥様がフランス人で、フランスにはこの近くにある別荘の他パリにもアルプスにも家があり、日本と合わせると七つ家を持っている。車も各地にあって計8台あるそうだ。そのうちの一つに乗って30分ほどで別荘に着く。なだらかな丘陵が続くフランスらしい風景の中の、遙か先まで見通せる高台にあり、周囲は何ヘクタールという単位で所有地だという。とにかく空が広い。この日も晴れて青空に雲と大地の緑が映える。二階の一部屋を与えられ、荷物を置いてから家の中を見学。Kさんには5人お子さんがいるのでベッドルームは最低でも6ついることになる。広々とした居間やテラスなど、羨む気もなくなる程素晴らしい。9月になって学校や仕事に戻ったらしく、残っているのは夫妻と四男のニコラ君だけである。兄弟の中でニコラ君が一番日本好きで、茶道や書道を嗜む。日仏の大学を出た後今仕事を探しているとのこと。もちろん、日本の就職浪人と違って、自分に合った仕事をじっくり探している感じで、もの静かなイケメンの好青年である。
Kさんがガレージを開けてくれて出て来たのが、アルファロメオ、スパイダーである。1972年販売150台限定モデルの75番で、エレガントな白のオープンカーである。歓声を上げた私にKさんはそこいらを走って来ていいと言う。私は就職した年に1975年型アルファロメオ2000GTVを買った程、実はアルファロメオのファンなのである。さっそく記念写真を撮った後、ブルゴーニュの野山を走る。気持ち良いことこの上ない。余り遠くに行くと迷って帰れなくなりそうなので軽く近くを一周しただけだが、十分に楽しめた。
戻ると今度はKさんが近くのロマネスクの教会がある町に連れて行ってくれた。牛肉で有名なシャルレというところで、小さな可愛らしい町並みで合った。再び別荘に戻り、お茶を飲んだり隣家の牧草地に放し飼いのロバと戯れたりして過ごし、夕暮れ時になったら夕陽の沈む空を見ながらアペリティフキールロワイヤルを飲む。日本では得難いのんびりとした贅沢な時間である。
やがて日が暮れ、夕食はご当地シャルレのステーキである。ワインはもちろんブルゴーニュ、2003年もののジュブレ・シャンベルタン。付け合わせは庭で採れたアリコ・ヴェールやズッキーニという贅沢さ。会話も弾み、美味しく楽しい忘れ難い一夜になった。満腹で12時前就寝。