ジボダン訪問

九月九日(水)晴
八時過ぎホテルを出て徒歩rue de Lyonまで歩き、44番地の楠香が滞在した住所に行って写真を撮った後近くのボルテール博物館に行く。午後からの開館なので写真だけ撮って、近くのパン屋で朝食をとる。ここで家内と別れ、私はひとりでバスに乗ってVernierに向かった。終点Vernier Ville で降りると目の前に牛がいた。ジュネーブからバスで20分ほどだが、のどかな田舎町である。i-Padの「経路」機能を使ってローヌ川に向かって住宅地の中を降りて行く。後から分かったのだが、その道が103年前に甲斐荘楠香がジボダンへと通った道であった。住宅地の横の斜面には葡萄畑が広がっている。坂を下り切ったところにジボダンの入口が見えた。世界最大の香料会社の本拠地である。10時半の約束の時間より早く着いたので、周囲を歩くことにした。少し行くと、工場側の正門があって大型トラックが出入りしている。その先にはその名も「parfumerie」というバス停があった。帰りはここから帰ることにしよう。ローヌ川を挟んだ対岸のずっと先には、楠香も行ったことのあるサレーブの山並みが見える。よく晴れた気持ちの良い朝である。
時間になったので受付に行って案内を請うと、右側の白い建物に入ると受付があるからそこに行けと言われる。歩いて建物に入り、今一度用件を伝えると入口横の椅子で待つように言われる。エントランスには会社を紹介するビデオが流され、装飾も含めセンスの良さが感じられる。日本のどこかの香料会社とは大違いである。しばらくしてやって来たのが、ジボダン社の合成香料営業のトップ、カムネン氏である。細身だが物腰柔らかい紳士で、温かく迎え入れてくれた。二階にある会議室に通され、名刺交換の後コーヒーを出してくれる。それから、まずは型通りの会社紹介のスライドが始まるが、途中から私のために探し出してくれたジボダンの古い写真が混ざって来る。暫くすると、史料探しをしてくれたアーカイブ・マネージャーや構内を案内してくれるケミストも合流して、楠香がかつて在籍した頃の資料について説明が始まる。しかも、当時ジボダンの図書室にあって楠香も読んだかも知れない香料概論2冊を貸してくれるという親切ぶりである。
それから会議室を出て、いよいよ楠香の働いていた、現存する建物の見学に行くことになった。アーカイブ・マネージャーとはそこで別れ、後は主にケミストのモティエさんが案内してくれる。まずは安全靴やヘルメット、防護メガネといったいでたちに改めてから、古い写真を頼りに現存する建物と見比べて特定していく。もちろん、なくなった建物や改造されたものもあるが、窓や屋根の形状からそれとわかるものも少なくない。多くは倉庫や消防車の車庫などに転用されているが、中には明らかに合成香料の製造設備の痕跡が残るところもあって、100年前に楠香がここで働いていたかと思うと感慨深いものがある。実際、100年前の工場が残っているのは珍しいのではないかと思う。何故なら、その会社が発展していれば建て直して規模を大きくしていくだろうし、逆に成長しなかった企業であればいずれ潰れて取り壊されるのが普通だと思うからである。その点ジボダンにとって幸いだったのは、ローヌ川沿いに敷地を買い足すことが容易だったのか、建て直すのではなく単に横に拡張できたことであろう。従って、現在の主力工場や主要な建物は皆この時代の建物よりローヌ川の川下方面に建てられているのである。
カムネンさんもモティエさんも、それまで何げなく見ていた古い倉庫群が100年前の写真に見るものであることに興味を覚えたのか、訪問者に構内を案内するといった通り一遍のものではなく、一緒に過去の痕跡を探り出そうとしてくれているような熱心さで構内を案内してくれる。楠香がジボダンから受けた恩恵も大きいが、結果として今こうしてジボダンの人たちにこれほど親身にもてなされたことに、ジボダンと楠香への感謝の気持ちを強く感じるのである。
企業の工場や研究所のある敷地内であるから、写真を撮ることは当然許されず、その分目に焼き付けておきたいという思いが強かった。ジボダンの社員にもほとんど知られていない過去を巡る見学を終わると、正午をとうに過ぎていた。カムネンさんは予約してあったらしい社員食堂へと私を導いた。社員食堂と言っても湘南辺りにある日本の香料会社のそれを想像しては行けない。カフェテリア方式のいわゆる社員食堂らしいのもあるが、連れて行かれたのは個室で、全くのレストランであり、部屋専属の給仕の女性がつく。名高いスイスワインの白も出る。物価の高いスイスで私が食べた最上級の食事であった。話題も楠香のことからスイスの徴兵制度の実際に至るまで幅広く、楽しい時間となった。部屋の壁には古い工場の図面にアーティストが自由な発想で描き加えたものが掛けられているのだが、それが実にセンスがいいのである。ジボダンという会社の底力を見せつけられた感が強い。
食事を終え、一度カムネン氏のオフィスに立ち寄り荷物をとって感謝を伝えて辞すことにするが、カムネンさんはバス停まで送ってくれると言う。気持ちよく晴れた9月の午後、ほろ酔いで葡萄畑の脇を歩く心地良さは忘れがたいものがあった。
バス停でカムネン氏と別れ、しばらくして来たバスを乗り継いでジュネーブに戻る。思ったより早かったので途中で降り、ヴォルテール博物館に行く。無料だが他に客はいない。有名なヴォルテール像始め、写真を撮りながらじっくりと見学することができた。元仏文科学生としてはジュネーブにおいて有益な訪問であった。それからバスでジュネーブ駅前に戻り、ホテルのロビーで家人と落ち合って荷物を受け取り、夕方5時過ぎの列車でジュネーブを離れた。8時前インターラーケンウエストに着き、駅前のホテルに投宿。明日も早いので早めに就寝。