縁騙しポジテイブ詐欺

一月二十六日(火)晴
昨日、本ブログ三十萬囘閲覽達成。老人の繰言めいた駄弁を書き連ねて五年半近く。讀者の忍耐に感謝したい。
ところが昨夜は家人の話を聞いて氣分が重くなつた。彼女の周りにゐる、ポジテイブ思考の自分中心主義の連中に吐き氣を催したのである。人が病氣になつたのも、其れがきつかけで自分の體調を考へることになつて良かつた、自分の爲に病氣になつてくれて有難うと本人を前にして言ふ無神經さ。此れも縁ねと何でも過剰に「縁」であることを持ち出して、それ以外の因果関係に思ひを致さない思考停止。病氣になつた本人の氣持ちなど御構ひなしでひとりご満悦だといふから怖れ入る。余は前にも書いたがポジテイブ思考といふ奴が大嫌ひである。一種の現實逃避ではないかと其の發想が氣に入らなかつたのだが、確かに其の手の人は結果的に自分がポジテイブに考へられればすべて良しで周りの人の氣持ちなど構はず、それが分かる周りの人が顔を曇らせると、何でポジテイブに考へられないの、と批難さへしかねないことに氣づいて嫌惡に變はつた。だいたい、笑顔でゐれば幸せになれるとか、ポジテイブに考へてゐれば夢が實現するといつたことを言ひ出すのは全て詐欺だと思つた方がいい。ましてや、それをセミナーとか称して金を取る連中は唾棄すべきインチキ野郎たちである。其の名も「笑子」と称する人が笑顔でゐるとなりたい自分になれると言ふセミナーをやつてゐて、これも端から見れば自分中心主義の最たるものである。こんなものに引つかかつて心酔するのは、結局なりたい自分になれなかつたかその努力をして來なかつた人、或はなれなかつた現實から目を背けようとする人である。人参をぶら下げて無理にする笑ひと、本當に幸せな人が自ずともらす笑みの違ひを、普通の人はちやんと區別出來るといふことがわかつてゐない時點でアウトであらう。笑ふしかないとはこのことだが、これで笑つて余は少しも幸せには感じない。むしろ悲しいくらゐである。
世の中ポジテイブに考へられぬことも笑つてばかりもゐられぬことも多い。辛いことがあれば悲しみ落ち込み泣き叫べばいいし、良いことも惡いことも、縁起の中の出來事とは言へすべて自分が選び判斷して來たことの結果だと思へば、原因を他に轉嫁することもあるまい。だからポジテイブ思考や縁を言ひつのり、更にさうしたことでお金を稼がうとする輩は、余には「縁騙し、ポジテイブ詐欺」にしか見えないのである。
追加
其れから、餘り度々「支へて下さつた人」だの「應援して下さつた方々」や「家族、友人」などへの感謝を口にし過ぎる人も要注意だ。感謝の言葉が口癖のやうになつてゐて眞實味がないだけでなく、感謝の言葉を口にすれば全て済んだ氣になつてゐることが多い。また、他人が自分に何かしてくれるのが當り前と思つてゐる事も多く、甚だしくなると期待通りに他人がしてくれないと不満顔を見せるか怒り出すこともある。ブログの先頭か最後に意味もなく「ありがとうございます」などと書く輩にかういふのが多い。感謝の化けの皮は簡單に剥がれるのである。余は此れらの人を「感謝過多型無神經質」と呼んで忌み嫌つてゐる。