更に

一月二十七日(水)晴
更に言へば、「人の爲に」とか「皆さんを笑顔にする爲に」何かをしてゐると、何かにつけて口にするのも一種の奢りではないかと思ふ。無償でやるなら兎も角、其れによつて生活の糧を得てゐるにも拘らず、恰も善い事をしてゐます的な言ひ方には抵抗がある。そもそも自分の身の可愛さを犠牲にして他人の爲に何かするなどさう簡單に出來るものではない。利他行動などあくまで例外的な出來事であり、利己的な言動は善くないと分かつてゐてもしてしまふのが人間であらう。昔の人は其の邉をよく心得てゐたから無闇にそんなことは言はずに、お蔭様の氣持ちで暮らし、少しでも人の迷惑にならぬよう氣をつけ、お天道様に恥じることのない毎日を送ることを心掛けて來たのである。結果的に自分のしてゐる事が人の爲になれば其れに越したことはないが、それだつて要するに「お互ひさま」の有り難さの中での話であり、助けられたり助けたりの毎日を送るのみなのである。此れが眞當な生き方であり、本當の謙虛さなのではないか。空氣を讀んで一歩下がつてみたり、へり下る事が謙虛なのではない。自分が存在することを無條件に肯定して、常に自分を中心に物事を考へるから、他人に何かをしてやれる自分を恥ずかし氣もなく人前に晒せるのであらう。羞恥心と謙虛さは表裏一體であり、其處には自分よりも優先されるべきものとしての「世間様」といふ感覺がある。まあ、最近は其の世間様の方もまともな平衡感覺を失つてゐる様に見えなくもないが、諸縁に生かされてゐるといふ自覺さへあれば、人の爲に◯◯したいなどと口外することもないだらう。自分に出來る小さな陰徳でも少しは積んで、しかも其れを誇る風など微塵も見せず泰然と「お互ひさま」の精神で生活してゆきたいものである。