かをりをりのうた 9

一月二十九日(金)雨

いづれともわかれざりけり春の夜は月こそ花のにほひなりけれ
和泉式部〜『和泉式部續集』より

十八・九歳の頃余は和泉式部に耽溺してゐた。岩波文庫和泉式部歌集』は當時の愛讀書であり、好きな歌には番號に丸を付けてゐる。今囘見直したが此の哥に丸はなかつた。十代の余に共感覚的表現は響かなかつたと見える。
さて此の歌は、連載の第二囘で取りあげた俊成の歌と同じく、月のひかりににほひを感ずる共感覚的な表現である。同じ光でも日中ではかうは行かない。「共感覚世界はとりわけ月の光の下その本質を露呈する」とは、日本文學における共感覚研究の先驅者高橋文二先生の至言である。月の光を愛でる王朝風の趣味と、一方で暗香疎影とか暗香浮動といつた漢詩から輸入した美意識が下敷きにある。暗いからこそ梅の香りの漂ひが目に見えるが如くににほふのである。しかも、此の歌には説明的な余計な語がないので月夜の月光のやうにすつきりと歌のすがたが輝いてゐる。仄(ほの)かな月明かりの下で、香りが目に見え、光が香りたつやうに感じられる。それが「わかれざりけり」なのである。ここでの花は当然梅といふことになるが、一方で松林桂月の「春宵花影」を觀てしまつた近現代の我々には、其れが櫻であつてもよいやうな氣もする。香りの薄い櫻なればこそ月明かりを得て躊躇(ためら)ひがちに幽かなにほひがさまよひ出しさうにも思へるからである。