着物と酒

十月二十六日(土)雨後陰
雨が止めば早くに家を出でて淺草を歩むつもりなれど中々上りさうになく、待つうち昼過ぎになつてやつと明るくなり始め、天氣豫報も颱風の逸れたる事を告げれば竟に着物を着け始む。家人は昨日と同じ藍染、余は今日はお召に羽織。其れでも少し降る中なれば余は下駄にして出立。横浜より京急にて淺草に至る。三時少し過ぎにて散策買物の暇はなく、ただ新仲見丗のトラヤ帽子店の陳列窓にグレーのフェルト帽ボルサリーノ製が飾られるのを見る。極めて恰好良く、暫し見とれるも値段も値段なれば試着もせず去る。其の後淺草西会館に赴き、會費を二人分払つて二階に上がる。辻屋本店主催あさくさ和装塾2013『着物で巡る日本列島 北から南/第四弾<山形編>』が三時半から始まる。余は雪駄も草履も下駄も此の辻屋で誂へてゐるが、此の催しの案内葉書を毎囘貰ふのと、前囘着物で出掛けた際には店主より是非お出でくださいと聲を掛けられたこともあり、好きな町であり實際着物の産地としても興味のある米澤がテーマでもあり初めて参加することにしたのである。ゲストで出る男着物の専門家である早坂伊織氏にも興味があつた。
會場には三十人弱の老若男女が詰めかけ、流石に和服姿が多い。常連も多いやうで既に話の花が咲いてゐる。程なく店主と伊織氏、ゲストの米澤の着物商の主人がスライドを見せながら米澤織や草木染めなどについて話をし始める。余の着物も結城や大島の紬を除けば殆ど米澤製であるが、産地の現状や特徴を知ることができ、また染料についても多少なりとも知識を得られたやうに思ふ。余の和装好きもだいぶ嵩じて來たやうだ。五時にトークが終り、五時半より同じ會場にて米澤の銘酒東光を飲みながらの交流會となる。前半で歸る人もゐるから席が空き、家人の前に丁度伊織氏が座ることになり、旨い酒を交しつつ着物や業界の話を澤山聞くことが出來、樂しい時間となつた。伊織氏は余とほぼ同年代で、富士通勤務から着物の丗界に入つただけあつて丗間の常識と着物の丗界の常識の違ひを弁へてをられるので話が早い。教へられることも多く、また氏の話から普段余が着物や着物を着てゐる人を見て思ふ事がさう間違ひではないことを知つて勇気づけられもした。男の着物をもつと広めたいといふ意気は大いに感ずる事が出來た。日本橋に此の秋ご自分の店を持たれたさうで、今度是非行つてみやうと思つてゐる。
七時過ぎ散會となり、ほろ酔ひの好い氣分で歸路に就かうとするも、ボルサリーノがもう一度見たくなり、店が閉まつてゐたら諦めるといふ氣持ちで行くとまだ開いてゐた。聞けば七時半まで營業だといふ。しかも余が最前見てゐたのを覚えてゐて、何も言はないのにサイズもぴつたりのものをすぐに出してくれる。試着するに實に恰好良い。他の色も試したが矢張り最初に惚れたグレーが一番自分に似合ふ。店の人も同じ意見であつた。前囘もさうだつたが、紳士的でソフトな接客が心地よい店である。氣分がいいのと酔つてゐるのと、昨日思ひがけぬ入金のあつたこともあり、これも何かの縁だと思ひ切つて買つてしまふ。初夏にパナマを買つた時から家人もかうなることは覚悟してゐたやうで、快く承認してくれた。早速被つて樂しい氣分で家路に就く。昨日今日と全く樂しいことばかりである。