迷走

五月三十日(月)雨
新しい職場に移って二か月。全く慣れない。日々元気が無くなり、歯を喰いしばって頑張ろうと思うのだが、気力が萎えて行くのが自分で分かる。職場で挨拶以外に話をすることはなく、ひとり黙々と資料を読む。社史編纂室が窓際族の墓場だと言われるのは、まさにこの、日々の業務から隔絶された孤独感の故なのかも知れない。しかも昭和十年代の、「非常時」に国策に組み込まれていく自社の歴史を物語る資料を読み、その中で創業時から中心となって働いてきた人たちが次々と死んで行く時代の状況を思うと、絶望感だけを感じて会社を後にすることになる。
他にももちろん理由はある。総務とか人事、経理といった部門の人たちとは、どうやってみたところで心が通うことはない気がしているし、何より気がつくと私がこの世で最も嫌っている人間のひとりが、いつの間にか私の視界の位置に舞い戻っているではないか。記憶から消したつもりでいても、視界に入っては嫌な記憶が蘇るようで、そうならないよう気持ちを抑制するストレスは相当なものだ。
これではこの先持ちそうもないので、ちょっと転職も考え始めている。社史編纂を甘く見ていた訳ではないのだが、職場の精神衛生がここまで悪いと、あと四年も持ち堪えられるとは到底思えないのだ。日々がこれだから、家に帰っても本も読めず何の楽しみも見いだせずにいる。ただ、尺八を練習することだけが、僅かに苦しみから逃れられる時間である。社会人として、私が欠陥だらけなのは自分でよく分かっているが、自分らしく振る舞えない職場では私は心身ともに不調に陥り、結局与えられた任務も成し遂げられないのではないかと思い始めた。そうだとしたら、実質的に何も始まっていない今放り出した方が、後からやる人にとってはまだましなのではないか。この会社でもう調香師には戻してくれないだろうから、給料が安くなってもいいからどこか小さな会社で雇って貰うよう働きかけてみようかとも思う。まあ、そんな甘い見通しでの転職活動などうまく行かずに、さらに精神状態が悪化することは目に見えるような気もするのだが。ただ、今は香りを創る以上に面白い仕事はないという確信だけは強い。社史がこの世で一番つまらない仕事だとは思わないが、とにかく今ほど気が滅入る職場は今まで経験したことがない。おとなの皆さんはそれでもぐっと我慢して働いているのであろうか。