ひとり飲み

六月二日(木)晴
昼休み散歩第二弾。吞川沿いを歩き、駅近くを歩いて嘗てMさんとよく行ったジャーニーと言うバーが建物ごとなくなって更地になり、パチンコ屋建設予定地になっているのを発見。無常迅速である。線路を越え西口に出てOUR GANGという店は今もあるのを確かめてから帰社。
就業後、今日の飲み会がドタキャンになったので、良い機会と思い、Mさん実家まで歩き今もあるのを確かめてから、菩提寺にも行くが既に閉門で中には入れなかった。元の岳父の墓参りをしたいと思ったのだが果たせなかった。それから再び西口に出て、Mさんと初めて二人で行った海老勝に入る。そもそも一人で飲みに店に入ることも稀だが、思い出の厚みがある分ひとりで飲んでいても十分間が持つと言うか、様々思い出しながらも酒と料理に陶然となれることを初めて知った。そういう歳になったというか、若い頃には店に入ってひとりで飲むなど考えもしなかったけれど、思い出をつまみにすれぱ結構ひとりでも飲めるものだということにやっと気づいた感じである。実際、鯛の昆布締めにカラスミを和えた肴は麒麟山と絶妙なマリアージュでとても美味かった。客の年齢層は高いがさすがに旨いものを出す店である。そんな店に二十五歳だったMさんが私を連れて行ってくれたのだ。今更ながら格好良い人だったと思う。そんなことを思いながらひとりで飲んでいると、明るい楽しさではないが、何ともしみじみとした幸福感を感じる。Mさんとの思い出と、今のN子との生活の安らぎに満ちた日々を思えば、日頃感じた不満や不平も小さなことに思えてくる。いろいろあったが、それで良かったのだと思える酔い心地である。酒を飲む楽しみとはこういうことなのかも知れない。言うなれば「肯定の力」が酔いによってもたらされるのである。また、ある程度歳を取れば、目の前の出来事や駆り立てられた欲望とは全く別の次元で、自分の生きて来た時間が酔った頭に丁度良い「対象」となるのだろう。そういうことに気づけたことも含めて楽しい夜であった。そして、このところ気を塞いでいたことも、改めて考えれば、やりたいことをやらせて貰えているわけだし、実際創業者甲斐荘楠香が居なければ今の自分もなかったと思えば、職場の雰囲気の悪さくらいで投げ出していいものではないことが自覚できた。ひとりで飲むことが、ある意味新鮮な体験として良い方向に働いた訳で、この先もひとり飲みに出掛けるかも知れない。
むしろ、若い女の子たちと飲みに行くことの方が、嫌われていて嫌々付き合ってもらうくらいなら、実際こちらとしても話は合わないし、若くて可愛い子たちと飲めている自分を誇らしく思うだけで何の得るものもないのであるから、今後はなくそうと思う。嫌なら嫌でそう言って貰えば済むのに、愛想だけはよくて結局ドタキャンになるくらいなら、こちらから願い下げとしたい。何か、とても色んなことが吹っ切れた一日だったように思う。家に帰れば優しい妻が何かと労わってくれるし、不平を言う方が贅沢過ぎるということに、今は素直に同意する。要するに十二分に幸せなのである。