老いの哀しみ

十一月十日(木)陰後雨
年史の資料として社内報を読み返している。当時は何気なく読み捨てていたものだが、後になって通観すると、時代を映す鏡としてきわめて貴重な資料である。ちょうど、自分が入社した頃を境に、会社も社会も大きく変わり始めたのが見てとれる。それはいいのだが、三十年近く前の出来事や写真を見ていると何とも不思議な気持ちになって来る。何と言っても皆揃って若い。当たり前の話なのだが、自分も含めて変わってしまった我々の姿に時間の残酷さを感じずにはいられない。中には当然男女の関係となった数々の女性たちの姿もあるわけだが、最近の姿を知っている人も含め、やはり昔はそれなりに可愛かったり奇麗だったりしたのだということが分かって、時の流れに溜息しか出ない。別れたり会社を離れたりして多くは二十年以上会ったこともない人たちばかりだが、その頃は魅力的な若い娘たちだったのである。今頃どこで何をしているのであろう。どんな容貌となったのか。幸せに暮らしているだろうか。会いたいとは思わないが、今どうしているのか知りたい気持はある。酷い別れ方をした人たちほどその思いが強い。幸せなおばさんになってくれていたらどんなにか嬉しく思うことか。私は年老いた。あの頃のような欲望と熱意と積極性を以て女性に接することなどもはや有り得ないし、そもそも興味も失せている。若い女の子たちは可愛いとは思うが、二十代だとそれも娘のようなものとしてであって、欲望の対象とはならないし、それほどの魅力がないように見えてしまう。さらに、あの頃関係を持った女性たちが、そのまま若くて私だけが今の歳だったとしたら、やはりその人たちにも興味を持てないだろうとも思う。自分が青かったということでもあるし、年老いた私の好みが変ったということもあるが、彼女たちによって私自身が育てられた一面もあり、それらのことは良い思い出とは言えないが大切な過去であることは確かだ。人は齢を取る。あんなに若さに溢れて輝いていた女の子たちが、あるいは太りあるいは皺が深くなって別人にしか見えないという悲しさ。いや、女性たちだけではないのだ。入社当時はるかに年上で大人に見えた男性の先輩たちが、今の自分より遥かに若かったし実際若く見えるという驚き。その後の姿を知っているだけに、若かりし頃の美男ぶりに唖然とすることも少なくない。三十年はあっという間であった。その時四十歳なら今は七十、五十なら八十。それだけの時間に何をして来たというのだろう。その時間を精一杯生きて納得して歳を重ねた人は良い老いの仕方をしている。そうでない私は、ただただ自分の年齢と過ぎ去ってしまった時間の重みに呆然として立ち尽くすのみなのである。