雅楽と茶会

十一月十三日(日)晴
昨日土曜は三宅坂国立劇場に赴き『創造する雅楽』を聴く。芝祐靖作曲の雅楽曲「招杜羅紫苑」と「雉門松濤楽」の二曲也。六年前に初めて大阪で雅楽を聴いた時のことはこの日乘の2010.10.29の項に書いた。正直言って退屈したのである。今回は先日の声明で雅楽の笙が使われていて久々にその音色に触れて面白いと思っていたところ、図らずもこの公演があると知って予約を入れた。芝祐靖の名は音楽通のJ先生とS井が誉めていたのできっと素晴らしいのだろうと思っていたのである。ただ、雅楽器を使っただけで楽曲は現代音楽のようなものだったら嫌だなという気持ちはあったが、幸いなことに最初の曲は雅楽の範疇に入りながらも聞きやすくメロディーや音色に変化もあり、西洋音楽に近いきっちりとした構成で、心地よく聴くことが出来た。二十分の休憩を挟んでの二曲目は、新曲なのにこちらの方がより伝統的な雅楽に近い感じがした。途中舞が入るのでその衣装の美しさに目を奪われるから眠らずに済んだが、楽曲だけだったら退屈したかも知れない。素人耳には同じような主題の繰り返しにしか聞こえないのである。六年を経て二度目の雅楽だが、印象はさほど変わらない。やはり五・六年に一度聴けば十分である。ただ、笙という楽器の音には魂が揺さぶられるようなところがある。「天から差しこむ光」とは言い得て妙である。音が天上から降りて来たようにしか思えず、パイプオルガンのようにも電子機器のノイズのようにも聞こえるのに、人工音の苛立たせるギザギザがないのだ。この音と篳篥の作り出すメロディーは、短い曲ならたまに聞きたいと思うが、だからといってそれらの楽器によるジャズとかポピュラー曲を聞きたいとは思わない。それと、太鼓と羯鼓のリズム感や管楽器に寄り添う感じのテンポはとても気持ちが良い。いや、五・六年は長い。二年に一度くらいは聞きたいが、国立劇場でさえ雅楽公演の頻度は声明と同じくらい少ないようである。
今日は三渓園で茶会。裏表江戸の三席に入る。そのうち二席で正客をやらされ、残りのひとつも家内が正客で余は次客である。着物で出掛けた男性の運命とは言えうんざりである。しかも、正客を人に押し付けておいて、席主と知り合いらしいお婆さんが勝手に亭主に会記を求めたりお軸を褒めたりのやりたい放題。だったらお前が正客に座れ、である。足腰が弱って茶席への出入りもままならぬ、着物を着た俗物の婆あとオバサンばかりの、茶会ならぬ茶番である。お茶の先生はたくさん来ているけれど、ひとりとして茶人など居ない、実に下らない茶番である。本物の茶人ならこんな席には出て来ないのであろう。ところが、その一方で岳母の社中の常識なき門人数人にも辟易させられ、側に居るのが恥ずかしい位であった。なんと腕時計も取らずに茶席に入り、似合わない着物が着崩れて見るも無残な上に、ヴィトンのバッグを手にしたKさん(中年女性)には呆れかえった。しかも茶席で薄茶をこぼして着物を汚して大騒ぎである。茶席で薄茶をこぼした人を初めて見た。何をかいわんやである。他にも言語道断の振る舞いの者もあり、茶道などやる資格のない者ばかりで、不愉快にして疲弊した一日であった。もう二度と俗物の茶番会には出たくないものである。