井の頭線の女

十一月二十六日(土)晴
夕方吉祥寺に着いた。久しぶりだったのでサンロードを中心に歩いてみた。駅の中はずいぶん変わってしまって驚いたが、北口の街のすがた自体はそれほど変わっていないようだった。ただ、店はずいぶん変わってしまったように思う。高校や大学のころよく行っていたジャズ喫茶やバーなどは、今も残る店もあり、なくなった店もあるといった感じ。ハーモニカ横丁は小洒落た店が多くなって、戦後闇市風の雰囲気はだいぶなくなってしまった。それから、寒くなってきたので東急百貨店に逃げ込んだところ、土曜の夕方なのに客がほとんどいないのには驚いた。百貨店は落ち目とは聞いていたものの、横浜高島屋などはいつも混んでいるので実感がなかったのだが、これでは立ち行かないだろうと余計な心配をする。わたしはエスカレーター横のソファで時間をつぶし、トイレを借りただけなのだが。
それから約束の時間に魚金という店に行くと、小学校の同級生がだいぶ集まって来ていた。今日はそのうちのひとりが小学校の校長先生に就任したお祝いの会なのである。十七名集まるはずが、当日ひとりはぎっくり腰、もうひとりは怪我をして救急車で運ばれたとかでドタキャンとなり、十五名となった。まったく歳をとるとこれだから嫌になる。今日のメンバーの大半とは年に二・三回は飲んでいるのだが、今回は小学校卒業以来初めて会う奴だとか、数年振りの者もあって盛会であった。十時半過ぎ店を出て、地元の者が多いので次の店に行くようだったが、行くと帰れなくなると思いひとり先に帰ることにする。
それで井の頭線の急行に乗った車内でのことである。左横に大きなコントラバスのキャリアーを持った若い女性が座った。ちょっと見ただけなのだが、スラリとしたスタイルで髪の長い、素敵そうなひとである。気持ちが少々ざわつく。顔を確かめたいのだが、真隣りなのでよくわからない。そうこうするうち、何駅か先で客が増えて、その女性のちょうど正面に、やはり若い女性が背を向けて立った。やや太目でもちろん顔は見えないのだが、服装からして二十代であろう。わたしは最初に綺麗そうに見えた隣の女性が気になるので視線が若干左寄りになる。そうすると視線の先にはその後ろ向きの女性が入ることになる。それで何とはなしに視線をおとしていたら、突然分厚い黒いタイツに液体のようなものが伝わるのが見え、何だと思っているうち床に滴が落ちた。………。まぎれもなく「おもらし」である。ただ、放尿というほど激しくはないから、失禁なのかも知れない。それを見たこともあって、リアルスニッファーのわたしにはすぐ小便の匂いが感じられてきた。失禁した女の子は床にこぼれた分をごまかそうとして靴底でこすったりしている。わたしは電車の中で漏らした人を初めて見たので驚いたが、もちろん声も出ない。他にそれを見た人がいないか周囲を見回したが、週末の深夜のこととて寝ているかスマホをいじっているかで気づいた風もない。隣の美女は?と思ってややはっきりと横を向いたが、そう、目の前に置いた大きな楽器のために、その先の出来事は全く見えそうにないことに気づいただけだった。出来れば彼女と、その事実を「見てしまいましたね」というような、驚きを含んだ微苦笑の目配せをしたかったのだが、その夢は破れ、後は自分だけが感じているらしい臭気に耐えがたい思いで電車に揺られるしかなかった。渋谷に着いて、何事もなかったかのようにコントラバスを背負った隣の美女は、失禁の跡ののこる辺りをためらいなく歩いて行った。わたしはわざわざそちらを避けて、遠回りして別の扉から降りた。ずっと昔には日常的にあったような気がする、電車の中で出会った女性への一瞬の恋心が、おもらしというアクシデントとともに、久しぶりに感じられたことが嬉しくて長々と書いた次第である。これもまあ、水の縁ではあるかも知れない。