読書放棄

二月二十二日(水)陰
ドミートリイ公爵がガブリエル・シャネルの愛人であったということを知って以来、俄かにロマノフ家に興味を持ちだした。第一次世界大戦への興味もあって、その最中で革命により退位を余儀なくされ、そしてシベリアで虐殺されたロマノフ家の人々への関心である。先週には東洋文庫で開かれている『ロマノフ王朝展』も観て来た。展示は書籍中心なのでそれほど驚くようなものはないが、ロマノフ王朝や日露関係の勉強にはなった。断片的な知識が少しは繋がったという感じである。そして、中公文庫に入っている『ロマノフ家の最期』を読んでいたのだが、158頁まで読んで遂に読むのを止めた。今では一家が同時に殺害されたことは後に発見された遺体のDNA鑑定で明らかになっているのに、この本では全員殺害説をでっちあげとして検証していく方向なので、犯人のわかっている推理小説を読むよりもっと絶望的な読書となるからである。もちろん、自分が結果を知っている目で見ているのは確かだが、今からすればごく自然な目撃者の証言も、この著者にかかると矛盾だらけで信用できないものになってしまうのである。全員虐殺はボリシェビキの残虐性を強調したい白軍のでっちあげで、ボリシェビキは元皇帝のニコライ二世は殺害したものの皇后や皇女たちはどこかに移送された可能性が高いと考えているようなのである。むしろ、全員を一度に殺してはいないと見せかけるためにボリシェビキ側がでっちあげる方が、白軍のでっちあげよりも動機としては強いと思われるのに、最初から結論を決めていたとしか思えないこの本の著者たちは、まんまとボルシェビキ側の作為に嵌められているようにしか見えないのだ。虚心坦懐にものを見ることの難しさ、そして思いこみによる事実の曲解が導く驚くべき推論ということを考えさせる。事実は謎もドラマもない単純な虐殺であり、証言の揺れは素朴な目撃者の動揺や、加害者側の人間の思い違いや記憶の曖昧さによる揺れに他ならなかったのである。そして、「何かが隠されているように感じた」という直接の目撃者でない周囲の人間の感覚に惑わされ、何かがあった筈だという思いこみで物事を眺めると、こうも歪んで見えるのかという驚きを禁じ得ない。今となってみれば、実際にその場に起こったことを単純に語ったに過ぎない証言が、その単純さゆえに疑わしく思えるというのは、BBCの敏腕記者だという二人のジャーナリストの「ご乱心」にしか思えない。ロマノフ家についての興味はあるものの、500頁近いこの本にさすがにこれ以上はつきあえなくなった。というより、読み始めてからあれっという感じになり、ネットで調べるとロマノフ家の最期については解決済みであり、そう言えばそんなニュースを昔聞いたような気がして、あらためて読み進むと以上に書いたような事態に到り、これはこの本の位置づけを知らずに買った自分の無知のせいだと気がついた次第なのである。南米の大河で1円、送料込みで258円だったからいいようなものの、もう少し調べてから買うべきだったと反省している。ただ、他にロマノフ家の最後に関するまともな本がないのも事実である。ネットを見てもいまだにこの本をもとにした情報もあり、ちゃんとした最新の情報にもとづく本があればいいと思う。あまりにも単純な殺害事件なので、もはやジャーナリストの興味を惹かないのであろうか。それにしても、著者たちは遺体の発見とその後の検査結果を知ってどう感じたのであろう。そちらの方が読みたいものである。