雑記

三月晦日(金)陰後雨
先日の樂茶碗の展覧会で図録とともに買った絵葉書を整理していたら、同じ茶碗のものを既に二枚持っていることが判明した。京都の樂美術館に行った際、それぞれ別の機会に購入していたのを忘れて、また買ってしまったのである。光悦の「冠雪」という銘の茶碗で、余程私の好みに適うらしい。
やはり先日、ポール・ヴァレリーの『精神の危機』を読み終えた。名のみ高くして今まで読んでいなかったのを、岩波文庫に入っていたことを知って読み始めたものである。通勤の電車内で読み継いでいたので、時間は掛かったが良い読書であった。第一次世界大戦がもたらした精神の危機とヨーロッパの没落に関する透徹した考察と、時代や社会の変化に伴う文化の価値の衰退に対する危機感は今日にも当てはまる事が多く、考えさせるところが大きい。それと、ヴァレリーが思いの外戦争の状況や戦術について詳しい事が分かり、興味深いものがあった。
毎日一度はユウチュウブでマディー・ジグラーのパフォーマンス付きのチープスリルを視聴している。彼女のレオタード一枚の少女体型が織り成す肉体の躍動と表情に釘付けになる。そして、しーあのCDを聴きながら、スルメで「鍋島」という日本酒を一合ばかりチビチビやるのが、せめてもの楽しみになっているのである。
それにしても、他部署で使いものにならなかった人間の吹き溜まりのような職場で働くというのは気持ちの萎えるものである。もちろん自分も戦力外として放り出された結果であることは十分理解しているつもりだが、せめてその中で楽しく仕事をしようと思っても、やる気を削ぐような事ばかりする上司の下では全く上手く行かない。まあ、保身に基づく遠慮、慎重を事として来た人間だから仕方がない事とは言え、社内手続き最優先、社内政治に超敏感なイエスマンには反吐も出ようというものである。
昨日は会社のある式典に出席し、懇親会にも列席した。私は単に広報として見学させて貰っただけであることから、酒も一切口にせず食べ物に手をつけずにいたが、それを見た元役員が、会社の金で酒を飲める程仕事をしていないんだから当然だな、と宣った。元の役員の中には私が年史を担当することになったのを適役として評価して激励してくれる方もいたが、所詮は誰も読みはしない年史の編纂に関わるとは、無駄金を使っているとしか思わない人も多いのである。いや、もちろん面と向かってそう断言する人はいない。表向きは年史の大切さをさも理解しているようなフリをしているが、出来上がったとしてもパラパラ捲るだけで決して読まない人ばかりであることはよく分かっている。私にしても、面白いからやっているだけで、大した価値などー少なくとも貰っている給料ほどのーないことは自分が一番よく分かっているのである。