文と樂

三月二十八日(火)晴後陰後雨
新宿湘南ラインで恵比寿に出で徒歩東京都寫眞美術館に到る。十時開館前に既に長蛇の列あり。明らかに老人多く目當ては同じと知る。十時二十分から上映される映畫『冥途の飛脚』の入場券及び席の指定の列である。上映するホールは廣いので入れないことはないが、窓口で各々席を選ばせるので結構時間が掛かる。余り良いシステムではない。映畫は昭和五十四年に撮影されたカナダ人監督による文樂の映畫化。當時の名人總出演の觀あり。後の名跡で言へば、九世源太夫、四世越路太夫、七世住太夫に三味線は五世燕三、鶴澤清治、四世錦糸、人形は初代玉男、三世簑助、二世勘十郎といふ豪華版である。映像は今のデジタルハイビジョンに慣れた目には流石にぼやけて見えるが、音は良く、普段は遠くの舞臺上に見る人形が多少なりともクローズアツプで寫るので細かな動きや表情も讀みとれてぐつと氣持ちが引き寄せられる感じがある。封印切の段の忠兵衛が沽券を傷つけられて堪忍袋を切らすところや、新口村の段に於ける梅川の義理の父親に尽くす甲斐甲斐しさやいじらしさなど、今まで以上に鮮明に藝の深さを堪能出來たやうに思ふ。大満足で恵比寿驛に戻り、家人と待ち合せて蕎麦を食した後地下鐵を乘り繼ぎ竹橋に至り、徒歩國立近代美術館に赴く。『茶碗の中の宇宙展』、すなはち樂家歷代の茶碗を通觀する展覧會で、先週の土曜に行かうと思つてゐたが倫敦ギヤラリーに行つたので果たせず、有給消化の爲此の日休んで觀に行つたのである。此方もまた名品揃ひで眼福といふべきであらう。とは言へ自分の趣味好みといふものは割とはつきりしてゐるやうで、矢張り長次郎とノンカウ、それから光悦が余にとりては壓倒的に好みである。長次郎の端正、沈思。道入の輕やかさ、そして光悦のセンスの極み。余は光悦は書よりも焼き物を好むもののやうである。今囘まとまつた數の光悦作を觀てまつたく參つたとしか言ひやうがない。圖録を購ひて通勤時間帯前に歸途に就く。まるで退職後の老夫婦のやうな生活パターンである。