発見

五月十二日(金)晴
本を捨て始めて気づいたのは、世界の全てを知ろうとしていたのだろうと思える程に書物のテーマが幅広いことと、それらの多くの主題にいまや自分が全く興味を持っていないということである。要するに、さっさと捨てても何ら問題はなかったことになる。次々と興味の対象、読書の傾向を変えているので、たまに数十年後に戻って来ることもあるのだが、その時には新しい本も出ていて、従って古いものから読み返すかというと、そういうケースはごく稀にしかない。雑誌の類も古いものを面白がってパラパラ捲ることはあっても、真剣に読み直すことはまずない。買った当時は資料的な価値を認めていたのかも知れないが、今やどこが重要なのかを推測することも難しい。家のスペースも限られ、というより可能な限り本の占める空間を少しでも小さくしたいと思い立ち、人生に残された時間もごく短いとなれば、残すべき書物はごく限られたテーマに関するものだけになり、それもこの先ささやかな原稿を仕上げてしまえば無用のものとなる。もとより自分の書くものなど無用であり、当の自分も身を用なきものに思いなしてはいるのだが、幕引きまでの暇潰しとしては、他人に迷惑を掛けることの少ない分、悪くない営みではないだろうか。社史を書いたから死ぬのではなく、死ぬまでの暇潰しに社史を書くのである。こんな気分でいると、酒を飲んでも何を食べても少しも美味しいと感じないことを昨日発見した。美味しいから幸せになるのではなく、幸せだから美味しく感じられるのである。それでいて、旨いとも何とも感じずに飲み食いしているその味気なさやつまらない感じが、自分は嫌いではない。というより、何やら落ち着き、ホッとする。美味しいと口に出して言わねばならなかったり、美味しそうな顔をするのが本当は苦手なのだ。むしろ旨くもないが不味くもないものを苦虫を噛み潰したような顔で食べている時の方が、余計な気を使わない分気が楽で幸せかも知れない。旨いものを食べて幸せそうな顔をしなければいけない状況に置かれるより、不味くてもぶっきら棒で不愉快そうな顔をしている方が、自分には自然で楽な状態なのだ。生まれて来た上に早晩この世を去らねばならないこの災厄の中で、他にどんな表情が出来るというのだろう。ここれはまた、シオランのような言い草だ。随分長いこと読んでいないが、シオランには戻ることがありそうだ。シオランの本は捨てないことにしようと思う。