マイクロ

六月十五日(木)晴
先週木曜に引き続き、朝から本郷に出掛け東大経済学図書館に行く。終日マイクロフィルムを閲覧するためである。日産化学の社長から、戦時中化学工業統制会の会長となり、戦後経団連の初代会長となった石川一郎という人が残した膨大な史料を、事前に目録でめぼしいものを選んでおき、マイクロリーダーで読み、必要があればコピーするという作業である。統制会の実情や、戦時中の化学工業界の実態を知る恰好の一次史料であり、面白い発見もあり、作業自体はさほど苦痛というわけではない。
マイクロリーダーを扱うのは今回が初めてだが、PCでウェッブ上のデジタル史料を見るのに比べても、扱いにくさ見にくさ不便さはなかなか大変なものである。ようやく、リールをリーダーにセットするのは上手くなったが、検索が利かないので最初から見て行く他はないのである。目安になる栞のようなものはあるので早送りは出来るものの、休む間もなく流れるモニターを見続ける眼の疲労は相当なものである。しかも、巻き戻すのもワンタッチとは行かず、押し続けなければならない上、コピーする際も1ページごとにidとパスワードを入力しなくてはならず、送った分を一括して印刷することも出来ずに一枚一枚選択してプリントボタンを押すという不便さである。だから、マイクロリーダーを一度に使える三時間という制限時間があっという間に過ぎてしまう。疲れ切って、午後の三時間分も予約してから昼食を取りに一旦図書館を出る。
それにしても流石は東大、というより旧帝國大學だなと思うところが多い。キャンパスも広いが、建物内もゆとりがあるしひとり当りのスペースがかなり確保されている感じがある。そこが私学とは違う気がする。早稲田など学生が多すぎるのだ。ラウンジはサークル系の人々で一杯で、結局喫茶店にでも行かないと落ち着くところがないから、勉強もしなくなるのではないか。それに比べ、経済学図書館があるのは赤門に近い赤門総合研究棟という建物で、そこには様々な学部の研究室や演習室があるのに、人は少なく至る所に座ったり勉強したりするスペースはふんだんにあるのである。一階のラウンジ的な空間も、明らかに学生ではない自分のような社会人や放課後の高校生なども入り込んでいるのに、混雑した感じがまるでない。しかも、図書館を始め本当にきちんと勉強している学生が多いのである。私など東大コンプレックス丸出しなので、周囲にいる人たちはみな頭が良さそうに見えて萎縮すること甚だしい。こんな環境で勉強していたら、今とはまるで違った人生になっていたかも知れないと思う反面、大学生のころの自分の無知と見当はずれの知的関心を思うと、どこであろうと結局この程度にしかならなかったような気もして来るのである。今は社会科学の諸学への興味や関心が強く、経済史を知る上でも金融や貿易、政治、法学などももっと知りたい気持ちはあるが、それは卒業後30数年を経て辿り着いたところであり、20代の自分はそうしたことがらへの興味を全く欠いていたのである。確かに、教養課程でとった経済学の授業から興味を持って資本論を買ったりはしたが、結局読み通せなかったし、今知識としてもう少し知っておきたいと思う金融や貿易、関税、商法といったことがらが、自分の関心に入ることすら想像も出来なかったのではないかと思う。何せ文学部仏文科などという、今の自分にとっては完全に意味不明な領域にいたのだから当然である。現在私は文学、すなわち詩や小説を読むことはほとんどないし、フランス文学に至っては何の興味もない。経済史を中心に、金融、財政、貿易、政治史、法制史、社会史、文化史あたりをうろつき、文学評論や思想史、あるいは自然科学系の一般書くらいまでは何とか手を伸ばすが、自分の楽しみのためや内なる欲求に従って小説を読むことなど全くなくなってしまった。文学部でせめて史学でもやっていたらと思うのだが、今さら言ってもすべては後の祭りである。会社の業務として自分の興味のある研究・勉強が出来る今の境遇を幸いとして、より良い社史を作るために努力するより他はないのである。