黎明期における日本の香料産業 【第一回】

はじめに

今日一般に化粧品や香水などの香粧品、あるいはシャンプーや石鹸などのトイレタリー製品に使われる香料は、多くの香料原料が混ざり合わされた調合香料と呼ばれるものです。その調合香料の原料としての香料は、天然の植物由来の天然香料と、化学合成によって作られる合成香料というふたつに分けられることは皆さんもよくご存じのことと思います。合成香料が登場するのが19世紀半ば、さらにそれらを使った調合香料が出現するのは19世紀も末の頃になってのことと言われています。
その当時香料を最も多く使っていたのは石鹸産業でした。工業化が進んだ19世紀のヨーロッパで生産を増やしていた石鹸製造業者は、天然香料のみで組まれたそれまでの調合香料から、安価で供給の安定した合成香料を使った調合香料へと急速にシフトして行き、それが合成香料産業を発展させたのです。現在世界的に活動している大手香料メーカーは、だいたい19世紀末から20世紀初頭に創業されています。しかし、合成香料の誕生は単に石鹸用の安価な香料をもたらしただけではありませんでした。合成香料を使うことで、天然香料だけでは作ることの出来なかった、それまでにない新しい香り−香調とかノートと呼んでいます−が次々と生み出されることになったのです。その最も有名な例が、アルデヒドという合成香料を使って1920年頃に創香されたシャネル5番でしょう。合成香料は天然香料の安価な代替品ではなく、新しい香りを作り出すパレット(素材)となったのです。
日本が明治維新によって西洋の香りと出会ったのは、西洋において合成香料の登場によるそうした香りの変革が起こりつつある時期でした。日本人はそれまで接したことのない西洋の新しい香りに出会い、そのハイカラさに魅せられて行きます。ところが、明治の半ばを過ぎて石鹸や化粧品が国内で作られるようになっても、それらに賦香する香料は欧米からの輸入に頼らざるを得ませんでした。天然香料に用いられる花や樹木、香草や果実が日本では栽培されていないか、されていても香りの点で劣っているという事情もあり、合成香料を製造する会社もその技術もまだ存在していなかったからです。
そうした状況が変り始めるのが明治の終りから大正にかけて、すなわち1910年代からのことになります。今回はこの時期に始まる日本の香料産業の黎明期にスポットを当て、化粧品や石鹸と香料の関わりについて述べてみたいと思います。

1. 近代香料産業のはじまり

日本の香料産業の黎明期を見て行く前に、合成香料の誕生に始まる近代香料産業の歩みについてもざっと目を通しておきましょう。合成香料といっても、初期の頃は天然香料の中から主成分を取り出す「単離」という方法で得ることから始まりました。すなわち、バニラからバニリン、シナモンからシンナミックアルデヒドを取り出すということです。それまでは天然香料を使っていたのですが、その中からもっともバニラらしい香り、シナモンらしい香りを持つ化合物を見つけ出し、その分子を合成して安く作ろうという発想です。もちろん、単離に従事した研究者たちは学問的な興味から仕事をしただけかも知れませんが、その背景にそうした要望があったのは確かです。天然香料より安く使いたいのに、天然香料から単離していては、量も減るし手間もかかって決して安くなりません。単離された化合物を安価な原料から合成してこそ安い香料が得られるのです。
1803年にビターアーモンドからBenzaldehydeが単離されて以来、19世紀を通じて天然精油から多くの化合物が単離されて行きます。そうして同定された物質を合成できるようになるのが19世紀半ばであり、1855年ジャスミン様香気を持つBenzyl Acetatetが、1868年には合成染料モーヴを発見したことで有名なパーキンがCoumarinの合成に成功します。この時期の合成香料において画期的なことは、それらの出発原料がコールタール由来のものであったことです。コールタールは石炭からコークスを製造される際に得られる副生成物ですが、19世紀の工業発展のエネルギー源として重要であった石炭産業にとって、当初は廃棄に困る単なるゴミに過ぎなかったのです。そのため安価な原料としての有効利用が課題となり、それが染料を始めとした化学産業の発展をもたらします。パーキンが染料と香料をともに発見したことが象徴するように、「色」と「香」がともに真っ黒い石炭から生まれるというのが、19世紀の化学工業発展のひとつの流れだったわけです。
とは言え、合成に成功したことと、工業化や商業化はおのずから別のことです。合成のCoumarinを使ったFougère Royaleという香水が出るのが1882年のことですので、その少し前に工業化が可能になったということでしょう。ウビガンから売り出されたこの香水は合成香料を使用した最も初期の香水として知られるだけでなく、その香調がきわめて新鮮で特徴的だったため香りのタイプを示す用語となり、現在も日本では「フーゼア」として知られています。フーゼアタイプの香りは今では主に男性用の香りとして使われますが、最近では衣料用柔軟剤に使われるなど、皆さんにもきっと馴染のある香りだと思います。
今日世界的な香料会社はほとんどが合成香料の製造から始まり、調合香料、食品香料(フレーバー)へと手を拡げ、さらには古くからある天然香料製造会社を傘下に収めるといった歴史を辿りますが、その多くが19世紀末から20世紀に創設されています。19世紀末から20世紀初頭が合成香料を使った近代香料産業の始まりと言われる所以です。ただし、断っておかねばなりませんが、その当時から現在に至るまで、調合香料のすべてが合成香料の混合物になることは極めて稀であり、様々な合成香料が出来ても天然香料は常に使われています。最初の動機は高価な天然香料の香気を安価な合成香料で置き換えることだったにせよ、合成香料の登場によって起ったことはむしろ香りの幅やタイプの増加、香調の革新だったのです。そして、それこそが、20世紀以降の今日われわれが知る近代香水の誕生をもたらしたと言えるでしょう。