近代と映畫

七月十日(月)晴
子安宣邦著『「近代の超克」とは何か』読了。この本を読み始めた動機である、「近代の超克」という問題についてのおおよその理解は得られた。今まで何となく知っているようなつもりでいたが、丸で分かっていなかったこともよく分かった。それでいて、何故この問題に子安を始めとした多くの人がそれほど拘りを持つのかが理解出来た訳ではない。もちろん、今さら「近代の超克」か、と言いたい訳ではない。それを言い出したら、徂徠も宣長も誰も論じることが出来なくなるのだから、「思想史家」としてそれをテーマとすること自体は問題ない。ただ、子安のアジア主義をめぐる論議やその評価に対しては大筋合意できるのに、その議論の持って行き方が私には今一つ腑に落ちない。先日書いた知識人の言説を以て「ほとんどの日本人」の感じ方としてしまう議論の遺漏さが引っかかっているのかも知れない。日中戦争から太平洋戦争、そして敗戦に至る日本という国のあり方について、あまりにも思想家や批評家の言説のみを対象として考察を重ねることに、私としては何とももの足らない思いが残るのである。もちろん、知識人や思想家たちの国家観、戦争観、歴史観を探ることは大切だが、それだけで戦争の内実を量ることは出来ない。政治家や軍人たちのそれら、そして庶民や兵士たちのそうしたものの見方や感じ方という、三つのレベルを縦断ないし横断して初めて「思想史」と呼べるものになるのではないかという思いが強い。その意味で、子安に期待していたものをこの本から読みとれなかったというのが正直な実感である。今後子安の、江戸期の思想、特に徂徠や宣長をめぐる論説をこの先読み、そしてもう一度近代思想に戻るつもりでいたのだが、今はちょっと失望感が強いので遠ざかるかも知れない。

ギヤオといふインターネツト上で映畫が觀られるサイトで「卍」といふ古い映畫を觀た。大映の作品で言はずとしれた谷崎潤一郎原作小説の映畫化である。大して期待してゐなかつたのだが、實に面白かつた。若尾文子の妖しい美しさが魅力的なのは勿論だが、とにかく若い頃の岸田今日子の綺麗さには驚いた。何ともしつとりとした湿り氣のある若奥様ぶりは私には好ましいものであつた。このふたりの女の同性愛的な愛憎に、岸田の夫で今渦中の俳優の父船越英二が絡むのだが、役者がやはり皆實に達者なので、その表情や演技で十分樂しめるのである。この英二の風貌も、息子は勿論今どきの男優にも見られぬ端正さととぼけた味はひがあつて嫌ひではない。それに、ふたりの女性の着る着物がとにかく美しい。浴衣もいいし、若尾の洋装も素敵だ。着物など最近の映畫だと派手で豪華であれば良いと思つてゐるやうで品もへつたくれもあつたものではないが、さすがに上品であか抜けてゐる。谷崎の耽美的な世界から遠のいて久しいが、かういふ映像であれば偶に觀たいものである。