黎明期における日本の香料産業【第二回】

七月十一日(火)晴
2. 香料と関税

 幕末に始まる海外との交易は日本に西洋の香水や香粧品をもたらしましたが、それはちょうど、今見てきたような合成香料の勃興期に当るわけです。石鹸や化粧品といった製品に接し、それまでの日本にはないそうした西洋の香りに当時の日本人は驚き、魅了されたことだと思います。特に石鹸は風呂好き、清潔好きの国民性もあって、早い時期から一般に使用されるようになりますので、多くの日本人にとって、ハイカラな香りに初めて接するのは石鹸であることが多かったのです。石鹸の国内製造は明治のごく初期から始まり、一時は国産の龍脳や黒文字油、橙皮油、山椒油が賦香されたこともありましたが不評が続き、石鹸製造が本格化する明治中期以降はもっぱら輸入香料が用いられるようになりました。そのため、日本の香料会社の多くは香料の輸入商から出発したり、香薬を扱っていた薬種問屋が西洋の香料を扱うことから始まることが多く、それは欧米の香料会社の成り立ちとはっきりとした違いを見せています。
 輸入品ですから関税がかかるわけですが、明治の末に至るまで日本は関税自主権がありませんでしたから、関税は意外と低率(5%から10%程度)でした。関税の歴史というのは時代を反映するもので、貿易の実態とその背後にある人々の消費動向を知る上で参考になるものです。その時点での商品の価値や使われ方を推測する手がかりになるからです。関税と香料との関係でひとつ面白い現象を発見しましたのでそれについて簡単に紹介することにします。
 それは関税の分類として初期から独立して設けられた「麝香」、すなわちムスクについての関税の移り変わりです。麝香は漢方薬や香油の類にも使われ、日本では採れないため江戸期から輸入はされていましたが、明治になっても引き続き輸入されていたようで、その関税率が一貫して沈香や白檀、丁子油といった香料よりも高率なのです。
 ところが、明治30年頃の関税定率表を見ると「麝香」に並んで「人造麝香」の項目があります。人造とは今日で言う合成のことで、合成香料も人造香料と呼ばれていました。ということは、人造麝香とは合成ムスクということになります。確かに1888年にBaurがニトロ・ムスクの合成に成功して後に商品化しているので、明治30年(1897)に日本に輸入されていてもおかしくはないのですが、この合成ムスクという代物、香気が麝香に似ているというだけで、化学的には麝香の香気成分と全く違うものなのです。従って、薬効などあるはずもなく、漢方薬に使えるわけではないのに、何に使われていたのか不思議です。何故なら1897年の段階では、日本の石鹸香料はほぼ100%天然香料で組まれるか、海外の香料会社が作った調合香料(これを調合ベースと呼びます)を使ったものであり、合成ムスクを単品原料として使うことはなかったのではないかと思われるからです。このあたり、当時の調合香料処方箋の解析等を進めないとはっきりしたことは言えないのですが、面白いのはこの人造麝香の関税率が麝香と同じ15%であり、他の香料素材の10%よりも高率であったことです。何故か合成ムスクだけは高率だったわけで、関税をかける役所の認識不足か人造麝香の特殊な用法によるのか謎であります。
 麝香の話はこれくらいにして、関税と香料の話にもどしましょう。関税自主権獲得前夜の時期に当る、先の明治30年関税法を見てみると、石鹸や香水は30%という高関税になっています。これはもちろん、国内で盛んになってきた石鹸産業を保護し、競争力をつけさせて輸出につなげようというのが国の政策だったからです。そして、日露戦争後の明治37年には財政逼迫による関税率引上げがあり、明治39年には新しい関税率が定められます。この時多くの天然香料の関税が30%となってしまいます。国内石鹸産業は発展しつつあるものの、原料である香料が高いとそれが結局価格に影響し、国際競争力に影響します。そこで石鹸会社や化粧品会社が団結して香料輸入関税引下げ運動が始まったのです。
 運動は明治43年に結実します。新しく改正された関税定率で、香料は無税になります。ただし、それは天然香料の話で、人造麝香はもちろん、当時すでにかなりの量が輸入されるようになっていたバニリンクマリンなどの合成香料には10%の関税が残ります。面白いのは、改正前に政府が業界に意見を求めたことに対する石鹸業組合の回答です。すなわち、天然香料を示す「芳香を有する植物性揮発油」や人造麝香に対しては内地で産出しないから無税を主張したのに対し、麝香や合成香料が含まれる「その他薫香性化学薬」に関しては使用していないから現行の税率で可と答えていることです。明治43年、すなわち1910年になっても、日本の石鹸用香料の大部分が天然香料であったことがこうしたことからも推測できるのです。

3. グラースに学んだ先駆者たち

 関税が引下げられて国内の石鹸産業が活性化されたちょうどその頃、日本の香料工業の先駆者とも呼ぶべき人々が海を渡ってヨーロッパを目指しました。もちろん、香料について学ぶためです。日本では学ぶところがなかった香料について知るためには、どうしてもヨーロッパに行く必要があったのです。今回はそうした先駆者の中から三人を取り上げてみたいと思います。
 まず、吉阪丙吉という人のことから始めましょう。神戸は灘の造り酒屋の家に生まれ、学習院の高等科を出た後アメリカに渡り、ルイジアナ大学で医学を学びますが、化学に転じて香料に興味を持ち始めました。そしてヨーロッパに渡りイギリスやドイツ、フランスを渡り歩いて香料の勉強をしたようです。フランスのナンシー工業大学で学んだとも、グラースのローチェ・フィスやジャンカールという香料会社で研修をしたとも伝えられていますが、確かな事はわかりません。大正2年に帰国して吉阪化学研究所を立ち上げ、香料の製造研究を始めたようです。翌年に第一次世界大戦が起こって香料の輸入が難しくなり、吉阪の作った香料を取り扱って売るようになるのが塩野吉兵衛商店という香料商です。大正4年には塩野の出資を受け「芳精化学研究所」と名称を変え、その後大正8年頃体調を崩して引退し、大正11年に42歳の若さで世を去ります。短い期間ながら、吉阪丙吉が日本の香料業界の黎明期に活躍した先駆者のひとりであることは間違いありません。
 次に、おそらく明治44年(1911)の早い時期にグラースに入ったのが長谷部小連という人です。御園白粉を開発し、伊東栄とともに伊東胡蝶園を発展させた長谷部仲彦の子です。その前年の明治43年に伊東栄がヨーロッパ各地を視察した際にグラースを訪れ、現在はシムライズの傘下に入っているローチェ・フィス社と交渉して直接取引の契約を結ぶとともに研修の受入れを申し入れて快諾を得たもので、すでに伊東胡蝶園に在籍していた長谷部小連が選ばれて派遣されたのです。具体的なグラース入りの日時や研修期間については残念ながら現在のところ明らかになっていませんが、当時のローチェ社の事業内容およびその後の伊東胡蝶園での展開からして、おそらく天然香料の製造や簡単な調合を学んだのではないかと思われます。この経験をもとに日本で試みられた天然香料の製造については後で述べることにします。
 長谷部小連がグラース入りしたと思われる同じ年の4月に、後に香料会社を創業する甲斐荘楠香がグラースに足を踏み入れます。甲斐荘は京都帝国大学理工学部助教授の職を休職して、私費で前年にヨーロッパに渡りグラースに入ったのですが、受入先の決まっていた長谷部と異なり、グラースの香料会社に何のつてもありませんでした。幸いなことに下宿先の婦人の仲介でスランという香料会社に無償の見習い工として入り込んで香料製造を実地で学ぶことが出来ました。そして、主人や技師長に気に入られて簡単な調合の学習も許可されます。そんな中、京都帝大の恩師久原躬弦教授の斡旋により甲斐荘は丸見屋への就職が決まります。1910年にミツワ石鹸を発売し、石鹸、香水、医薬品の他、伊東胡蝶園の白粉などの化粧品を販売していた丸見屋は甲斐荘を在仏のまま採用し、公費で留学を続けさせたのです。丸見屋が香料のユーザー側であったことはさらに良い方向に働き、スランの店主の紹介により甲斐荘は大正元年にスイスはジュネーブにある、今日世界最大の香料会社であるジボダン社で研修できることになったのです。そこで甲斐荘は合成香料の製造についても学びます。大学で教えていたくらいですから、香料製造に関わる化学的な知識はあったのでしょうが、実際に製造に携わってみて理論と実際では大いに違いがあることを会得したようです。この経験が後に日本に帰って合成香料の製造を始めるにあたって役立ったことは言うまでもありません。