黎明期における日本の香料産業【第三回】

七月十二日(水)晴
4. 日本の天然香料

すでに述べたように、石鹸の賦香などで需要の生じた天然香料を国内で生産する動きも明治期にはありました。明治年間に製造された天然香料としては、芳樟油、桂皮油、橙皮油、纈草根(セイヨウカノコソウの根)油、菖蒲根油、紫蘇油、黒文字油、杉油、山椒油(シトロネラ)などが知られています。ただし、前にも述べた通り、その評判は文字通り芳しいものではなく、それらは今ではまったく存在していません。
それでも、大正になってからもさまざまな植物から香料を採ろうとする試みがなされていました。たとえば、大正3年に開かれた大正東京博覧会には、辛夷(こぶし)油、八角油、菊油、香附子油、鈞樟油、蜜柑油などが出品されています。フランスとスイスで、天然、合成両方の製造法を学んで来た甲斐荘楠香も、帰国後丸見屋で取り組んだのは天然香料の開発でした。黒文字油からシネオール臭を抜きリナリルアセテートの比率を高めることで、ラベンダー油の代用として使うことのできる「モジオール」を開発した他、朝鮮産の薔薇やスミレ、水仙などの蒸留を試みていました。日本特産の植物から西洋にはない新たな香料を作ろうともしていたようで、残されたノートにはドクダミよもぎ胡麻などの名前が記されています。その一方で、丸見屋主人の命を受けて台湾に渡り、ジャスミンの栽培と香料の採取を試みもしました。その事業は結局うまく行かなかったのですが、樟脳をはじめシトロネラやレモングラスといった香料資源に富む台湾という土地を知ったことは、後の高砂香料立ち上げの際大いに役にたったようです。
丸見屋だけでなく、自前で天然香料の製造を目指した化粧品会社もいくつかありました。グラースの天然香料工場を見学した伊東胡蝶園の伊東栄は帰国後箱根に土地を買い入れて百合の花を栽培し、目黒には薔薇を植えて天然香料を製造しようとしていました。グラースで学んだ長谷部小連が関わったのは間違いないでしょう。レート石鹸や化粧品を出して当時大手であった平尾賛平商店でも大正7年ころから北海道各地で野生のリリーやハマナスから香料を採る試みがなされたようですが、人件費がかさんで採算が合わずに断念したようです。少し後の話になりますが、東のレート西のクラブと、平尾賛平商店と並び称された中山太陽堂(今のクラブコスメチックス)でも昭和12年頃台湾に香料試験工場を建設し、ジャスミン、ガーデニア、カッシーといった花や、レモン、ベルガモット、タンカン、ポンカン、オレンジなどの柑橘類から精油を採る計画でしたがなかなか思うように行かず、戦時下となって航空機燃料の代用として使われた松根油の製造に切り替えざるをなったようです。
昭和10年代になると小川香料や塩野香料、曽田香料などの香料会社も台湾に進出するようになり、樟脳副産油や芳油からの合成香料製造や、シトロネラやレモングラス、あるいはポンカンなどの柑橘類からの採油を始めるようになります。ただし、これは日中戦争勃発後に香料の輸入が困難になる中での自給のための方策という側面が強く、大正から昭和初期の動きとは趣きの異なるものでした。

5. 第一次世界大戦と合成香料

明治の末から大正の始まりにかけて先に見た三人の日本人がヨーロッパで香料を学びますが、彼らは大正2年の末までには皆日本に戻っていました。翌大正3年には、吉阪丙吉は自分で建てた研究所で合成香料の研究と製造に着手していましたし、甲斐荘楠香は丸見屋の化学研究所に勤務しながら、天然香料の試作や合成香料の研究、さらには香水の調合もするという忙しい日々を送っていました。ところが、その年1914年の夏、ヨーロッパでは第一次世界大戦が始まるのです。
 この戦争が与えた衝撃は、戦場となったヨーロッパの国々にとって計り知れない大きなものだったと思われますが、遠く離れた日本にもさまざまな影響をもたらしました。戦争によってヨーロッパからの輸入が困難になったのです。海上輸送が難しくなったこともありますが、化学品、薬品などはドイツや英仏からのものが多かったため、輸入そのものが極端に減少してしまったのです。化学品の輸入がままならなくなったことで、この時期やむなく国内で作らねばならなくなり、化学工業が我が国でも勃興することになったことはよく知られています。香料を含む原料の多くを輸入に依存していた日本の石鹸業界や化粧品業界も、仕入先を国産にシフトせざるを得なくなったのです。
当時の香料業界はと言うと、明治27年に樟脳を原料として龍脳(ボルネオール)を製造した大阪の山本文七氏を嚆矢として、明治末には東京の代々木化学局製造所などではボルネオールの他ヨノンなどの製造も始まっていたと言われていますが、本格的な合成香料製造は甲斐荘楠香の勤めていた丸見屋が最初でした。石鹸や香水、化粧品の製造販売を行っていた丸見屋では戦争前の1914年の早い時期に化学研究所を立ち上げ、甲斐荘らに天然香料及び合成香料の研究を命じていました。そのためにこそ在欧中の楠香を雇ったのでしょうから、先見の明はあった訳です。当時作られた品目としては、リナリルアセテート、ヨノン、アニスアルデヒド、イソオイゲノール、ゲラニオール、シトロネロール、シンナミックアルデヒドなどがあり、よく売れたようです。一方神戸の吉阪丙吉のところでは、サフロールやリナロールの単離の他、ゲラニオール、ゲラニアセテート、リナリルアセテート、アニスアルデヒドなどを製造し、こちらもまた飛ぶように売れたと塩野香料の社史にあります。それまでは香料も舶来品がもてはやされ、国産品は見向きもされなかったと言われますが、戦争のおかげで順調な売れ行きを見せ始めたのです。
大戦が長期化の様相を示し始めると、合成香料や天然香料の製造を試みる会社が増えて来ました。天然香料についてはすでに述べたので、合成香料についてのみ見て行きたいと思いますが、すでに紹介したクラブ化粧品の中山太陽堂が1915年に中山化学研究所を設立したのが注目されます。ユストス・ウォルフら外国人技師を招聘して進められた研究の中には香料もあり、大正7年(1918)にはボルネオールやヨノンの製造を始めたとのことです。それらは自社で使うだけでなく売られてもいました。香料は儲かる仕事になったのです。
 ところが、うまい話はそう長くは続きません。戦争が終り、ヨーロッパ各国が復興に向かって香料の製造が始まると状況は再び大きく変化します。輸入が再開されてみると国産品が価格の面でも品質においてもやはり欧州製のものにくらべ劣ることが明らかになり、結局舶来品の使用に戻ってしまったのです。国産品の売れ行きは落ち、コストはさらに高いものになります。石鹸や化粧品で実際に香料を使っている会社では、作るより買った方が安いとなれば製造を中止するのも仕方のないことだったのでしょう。甲斐荘楠香の勤める丸見屋もそう判断し、香料部門の撤退を決意します。せっかく育ち始めた香料産業をこのまま潰してしまうのは惜しいと楠香は独立を決意します。確かに作れば売れる状況ではなくなりましたが、淘汰されて技術のある会社だけが生き残れるとも言える訳で、大正の終りから昭和にかけて日本の香料産業も当時の欧米に伍していくだけの技術力を持ち始めていたのです。
 昭和6年には保土谷曹達という化学メーカーがコールタール系原料からクマリンの合成に成功し、翌昭和7年には近藤製薬が同じくコールタール系原料を使ってムスクキシロール、すなわち人造麝香の合成を成し遂げます。短期間のうちに日本の香料産業は、主要な香料品目の製造が出来るようになったのです。
ところが、前にも述べた通り昭和12年日中戦争以降は香料の輸入が難しくなって、国内産業にとって一見第一次世界大戦時と同じような好機到来のようにも思われますが、実際には状況はまったく違うものになりました。すなわち、戦時体制の強化によって香料や香料を使う化粧品などは贅沢品とみなされて製造が制限されることとなり、香料の生産は尻つぼみとなってしまうのです。
 香料会社の多くは、選鉱剤や航空機用燃料などの軍需用化成品の製造などで生き残りを図りますが、香料開発の研究は休止状態となってしまいます。したがって、大正から昭和初期にかけての黎明期を脱して、日本の香料産業が真の発展期にさしかかるのは敗戦後のことになります。第一次大戦を契機に育ちはじめた香料産業は、皮肉にも第二次世界大戦によって足踏みを余儀なくされたのです。
[完]