或る海軍大佐の生涯

 

 大正9年(1920)7月16日、広島県江田島にある大日本帝国海軍兵学校では第48期の卒業式が行われていた。難関の入学試験を突破して江田島に学ぶこと3年、卒業証書を手渡された後、「生徒用の軍装から真新しい純白の海軍少尉候補生服に着替えて祝宴に臨む[1]」エリートたちの顔はさぞや晴れやかなものであっただろう。

 卒業生のなかに、鳥取県出身の鶴尾定雄という青年がいた。明治33年(1900)11月生まれだからこの時弱冠19歳。主席卒業こそ逃したが、ハンモック・ナンバーと呼ばれる、その後の海軍生活で昇格や序列に際して参照されることになる卒業生席次において三番を獲得している。通常なら、いわゆる「恩賜の短剣」を貰える優秀な成績だが、何故かこの時は二番までにしか与えられていない。このことが、どことなくその後の鶴雄の人生に暗い影を落とすような気もしないでもない。

 鶴尾の卒業直後の任官先は不明だが、卒業後5年たった大正14年には、東京帝国大学理学部に海軍学生として入学試験を受けた記録が残されている。試験には無事合格したようで、海軍技術研究所の技術者一覧表には昭和3年(1928)東京帝大化学卒と記されている。海軍兵学校をトップクラスで卒業した鶴尾の優秀さのほどが知れよう。

 東大受験の際の階級は中尉であったが、その後に初めてあらわれる昭和3年の記録では大尉に昇進している。鶴尾の名は「大礼記念章名簿」の中に、軍艦「山城」の乗組員として見える。この年の11月に京都で挙行された昭和天皇即位式、すなわち「大礼」の後に行われた御大礼特別観艦式に「山城」も参加したことにより記念章を受けたものであろう。観艦式は横浜港沖で行われ、「山城」はお召艦「榛名」の進むルートの右舷にあたる第一列の5番目に停泊していた。鶴尾大尉も佐官級に昇進する前は艦上勤務をしていたことがわかる。

 次に記録として出てくるのは昭和8年(1933)6月で、そのときはすでに少佐として海軍技術研究所に勤めており、宮城県の陸軍王城寺原演習場で実施された化学兵器野外教育試験を見学している。その後ほどなくして化学兵器共同研究のため陸軍科学研究所に派遣されたらしい。今で言う出向だろうが、犬猿の仲とされる海軍と陸軍に、こういう形での共同研究もあったのである。ただ、そこには化学兵器に特有の背景があった。

 今までわざと化学兵器とだけ書いて来たが、要するにそれは主に毒ガスを意味するものである。周知のとおり、第一次世界大戦すなわち欧州大戦の戦闘において毒ガスが使用された。ドイツ軍によるイペリット弾(いわゆるマスタード・ガス)が有名だが、イギリスやフランスといった連合国側も別種の毒ガスを実戦で使っていた。その被害の悲惨さと非人道性から、戦後に協議されたジュネーブ議定書により毒ガスの使用が禁止されることになる。1925年にまとめられ、3年後に発効したとされるが、日本は当時これに批准せず、実際に批准するのは1970年のことである。アメリカはさらに遅く、1975年になっての批准である。

 このことが、東京裁判において日本軍の毒ガス使用を不問に附す背景となるのだが、それについては後で述べる。欧州大戦での毒ガス使用の実態やその威力に衝撃を受けた陸軍では、戦争中の1916年末に毒ガスに関する文献調査に着手し、翌年には技術審査部が調査・研究を始める。さらに18年5月には「臨時毒瓦斯調査委員会」を設けている。そして戦後間もない19年4月に創設した陸軍科学研究所の第2課に、化学兵器研究室を設置する。欧州での戦闘に参加しなかった日本軍は毒ガスを使用した戦闘を経験しておらず、また大戦の間にドイツが開発した毒ガスに関する情報も持っていなかったため、知見の不足に対する危機感が強かったものと思われる。

 これに対し、欧州大戦の海戦で化学兵器が使われなかったこともあり、海軍は対応が遅れた。大正12年(1923)になってやっと、海軍技術研究所を築地に創設し、そこに化学兵器研究室を置いたのである[2]。築地の本願寺から堀川を隔てた対岸にひろがる一帯は、海軍が創設されてから、というより幕府の操練所が建てられて以来、海軍大学校や軍医諸学校、水交社などのさまざまな海軍関連の施設が並ぶ「海軍村」と呼ばれていた地域で、兵学校も明治26年(1893)に江田島に移るまでそこにあった。その海軍村の一角に出来たばかりの技術研究所だったが、その年の9月に大震災で全焼してしまう。

 海軍施設の多くはこれにより他所への移転を余儀なくされ、築地の旧海軍用地に、同じく震災で被害を受け日本橋から移って出来たのが築地市場である。技術研究所の他部門は目黒に移ったものの、化学兵器研究室は築地地区に焼け残った火工工場の片すみで毒ガス研究を継続していた。これは毒ガスの性質上、目黒のような住宅密集地での開発は危険すぎるための措置であったようだ。化学兵器研究室が築地を出て平塚にある海軍火薬廠の一画に出張所として移転したのは、震災から7年が経過した、昭和5年(1930)になってからのことである。昭和8年に同所に製造実験工場が建設され始め、翌年には化学研究部に昇格を遂げる。

 ちなみに、欧州大戦中陸軍は毒ガス開発のため民間の化学工業会社に協力をもとめたが、大戦景気で輸出向けの製造に忙しく見向きもされなかったという。唯一協力を申し出たのが磯村音介の始めた現保土谷化学、当時の程谷曹達であった。程谷曹達では毒ガス原料の塩化ベンジルや塩化ピクリンを製造したが、陸軍は他の重要な原料であるフェニルカルヒールイミンクロリドの製造研究を中村研究所に命じている。中村研究所は山九を創始した中村精七郎が蒲田に建てた研究所であり、後に松竹蒲田撮影所となるところである。今は区民ホールとなっているあたりで毒ガス研究が行われていたことになる[3]

 それはともかく、陸軍よりも毒ガス研究で後れをとった海軍が、プライドを捨てて教えを請うた結果が「共同研究」の実態であったようだ。頭脳明晰で知られた鶴尾少佐が抜擢されて陸軍に送りこまれた。鶴尾はその後の昭和9年には海軍艦政本部出仕少佐の資格でアメリカに出張する旨の記録が残されている。前後のキャリアから考えれば、化学兵器関連の視察や調査が目的と考えられる。

 昭和11年12月に中佐に昇進していた鶴尾は、昭和12年1月に満州に出張した。これは陸軍の習志野学校が主催した「化学兵器幷に防護具の厳寒地に於ける効力試験」を実地視察するためのものであった。イペリットなどを使った実験が行われたようである。習志野学校は昭和8年に設立された化学兵器に関する教育を行った軍学校であり、鶴尾は昭和12年には同校を訪れ、作業を見学している。なお、同12年2月には海軍技術会議の議員に任命されているから、海軍の中でも毒ガス関連のスペシャリストのひとりとして認識されていたのではないかと思われる。同じ昭和12年の6月に、化学兵器関連の民間会社である昭和化工と日本化工を海軍技術研究所中佐として見学した記録がある。

 昭和13年の12月に鶴尾は艦政本部から異動となって技術研究所平塚出張所の化学研究部に赴任して来た[4]。その後昭和14年2月に樺太での化学兵器の耐寒実験に参加した他、昭和16年には南方に出張している。この年の10月に大佐に昇進している。

 昭和17年12月にいったん平塚を離れて横須賀の海軍航空技術廠火工部長に就任する。そして、翌年の末に艦政本部の課長となった後昭和19年に、すでに相模海軍工廠化学実験部へと機構変更されていた平塚に戻って第一火工部長となる。その後12月からは艦政本部第一部第二課長も兼任していたようだ。昭和20年7月には化学実験部長も兼任することになって、その直後に終戦を迎えた。

 当時、平塚と寒川の工場を含む海軍相模工廠の廠長をしていたのは、海軍における化学兵器研究の草分けとも言うべき、東大応用化学出身の海軍技術少将金子吉忠男爵である。金子家は島根県大田市にある物部神社の社家から華族に列せられた家柄で、吉忠氏の妻は子爵高辻家から嫁ぎ、吉忠の息子の妻も薩摩出身の海軍大将伊東祐亨伯爵の子孫という華族出の一家である。

 金子少将は大正12年化学兵器研究室創設以来毒ガス研究に携わってきた人物で、平塚出張所創建にも関わっている。大正13年にロンドン万国動力会議に出席した他、昭和2年には3か月に渡って欧州を視察した。その際に空中窒素固定法を発明してノーベル賞を受賞したフリッツ・ハーバー博士に会っている。博士は毒ガス兵器を開発して「化学兵器の父」とも呼ばれる化学者である。金子は長らく海軍の毒ガス製造の拠点である相模工廠の廠長を務めていたが、敗戦直前の昭和20年7月に突如として異動となった。金子の代りに着任したのは磯惠少将で、金子と違って化学出身ではなかった。磯は着任後一月も経たぬうちに敗戦となって、海軍省の指示に従って工廠の後始末をすることになる。その時の様子を磯はのちに、

「何分化学兵器の研究製造をしていた工廠のことであるから、万が一にも戦犯として裁判にかけられるような人を出しては大変と考え、工廠内部のことは総て杉野総務部長に任せ、専ら戦犯防止対策に全力を尽すことにした[2]

と振り返っている。

 一方の鶴尾は敗戦後も平塚にとどまって事後処理に奔走する。その時期の様子を戦後かなり時間がたってから本人が綴った手記が防衞研究所に残されている[5][6]。敗戦直後の軍関係工場の実態がわかって興味深いので抄録することにしたい。

「昭和20年8月15日1200に大詔渙発の通知あり。総員ラジオ放送を聞き、終戦の勅書であることを知り感激する。一応解散し1300部長会報あり。廠長より勅書に從って事を処理し、輕挙することなきよう注意あり。互いに今後のことを相談する。1330解散。

8月16日 0750朝礼の際総員に対して廠長訓示あり。一同の勝ち抜かんとの必死の努力も無駄となったが、大詔のご趣旨にそつて行動し、今後の指令を待ち処置することにするとの大意であった。

1400-1500部長会報があり、さし当っての処理として機密書類を焼却のこと、残すものは外国品の模倣、ごく簡単なもののみとする。物品は賣拂うこととし、その月日をさかのぼる。ただし1.5月分の食料、被服は残し置く。学徒、挺身隊は早くかえすこととする。一般工員はただぶらぶら遊ばすことなく農耕、製塩などの準備その他後始末に從事させる。嘱託は解傭のこととして日付をさかのぼる。以上のような打合せを行い、今後毎朝0800より部長会報を行い情報を交換すると共に、今後の処置を打ちあわせることにした。しかし、8月20日頃まで確固とした処理方針は定まらず、ただ時日を延ばし情報を待っておったような次第であった。」

 8月19日ごろから女子挺身隊や男子学徒を故郷に返し、女子工員でも希望する者を帰し始める。21日には

「艦政本部より安井部長來廠。化学兵器研究、製造の状況を米軍に説明する方針を打合わせる。すなわち、1.海上を主体として整備 2.航空基地制圧のための整備 3.情勢に依り陸戦用にも用う。 4.軍醫官は醫薬品、治療、除毒剤の効果等の研究のためであり、動物実験も行う。」

とあり、進駐軍対策が始まっているのがわかる。23日に退職金の規定などの通知があり工員を解雇していき、8月29日以降は必要最小限の人員のみ残った。さらに9月に入ると士官の大部分も予備役に回され、残留を命ぜられた者以外の出勤が禁じられる。この後予想される米軍による化学兵器に関する調査や査問に対応する立場にある鶴尾は出勤を求められていた。

「米軍は9月6日頃初めて進駐し、部長以上構内を案内して現況を説明した。米軍は平塚火薬廠を本據として寒川に分遣隊の形として進駐した。ほとんど同時期に平塚化学実驗部にも進駐した。こうして相模海軍工廠は米軍に接収せられて解散し、その機能を失った。この際特に工廠の解散式は行わなかった。」

 いよいよ進駐が始まったが、化学戦担当の将校による調査が始まるのは9月29日からである。この日鶴尾らは都内の第一生命ビル、すなわちGHQの213号室に呼び出され、担当のスキッパー少佐に面会した。化学兵器全般、そして特に攻撃用の化学兵器の専門家として鶴尾が代表となり、そこに防禦兵器専門の小川技術大佐と合成関係を担当する平塚技術大佐が加わった。10月10日にはスキッパー少佐は平塚を訪れ鶴尾らの案内で場内を視察した。鶴尾によればスキッパー少佐は満足した様子だったという。2日後に再びGHQに出向いて追加の説明を終え、これで調査も打ち切りかと思っていたところ、スキッパー少佐が帰国してしまい、新たにノーレン少佐が担当となって、10月31日に平塚を訪れる。視察とともに、英文の質問書を渡して10日後に提出するように命じて帰った。その際回答として書いたものを、後にあらためて覚書として残したものが『相模海軍工廠化学兵器製造)に関する報告』である。ここにはかなり詳細に海軍の化学兵器開発の経緯や組織、陣容、製造設備や基本方策、製造量などがまとめられており、ノーレン少佐も納得したのか、調査はこれで終っている。

 次に鶴尾が取り組んだのが、相模工廠の民需転用である。海軍ではポツダム宣言を受諾した8月14日の翌日には「軍需生産體制ヲ速ニ國民生活安定並ニ民力涵養ニ轉換[7]」する方針を通達し、9月17日には「海軍工場処理要領」として、「民需工業ニ転換シ得ベキ工場ハ速ニ之ヲ轉用シ以テ平和産業ニ寄與セシム」ることを確認していた[8]。占領軍からの方針や指令が出される前の、かなり早い段階での指示であった。軍需品の製造設備の中でも、とりわけ毒ガス工場が敗戦後に無用となることは明らかであり、部下の再雇用も視野に入れて鶴尾は転用先の確保に動いたようである。

 国立公文書館アジア歴史資料センターに残された史料の中に、陸軍の便箋2枚に残されたメモがある[9]。「東京第二陸軍造兵廠関係」と題され、二〇、九、二七の日付があり、たとえば「多摩製造所」の下に「日産化学」、「深谷・櫛引工場」の下に「希望者ナシ」とあって、明らかに民需転用の候補が記されている。その二枚目は「海軍関係」とあり、相模工廠平塚工場には「日窒工業」と「三井化学」の社名が見える。当初はこの二社が名乗りをあげたようなのである。ところが、その後の11月に始まるGHQの財閥解体政策により、三井化学の線はなくなったと鶴尾自身が『相模海軍工廠 設立経緯及び始末』で述べている。日窒も新興財閥として同様の理由で外されたものであろう。

 こうした経緯を受けて、鶴尾は当時某香料会社の役員であったNに平塚の化学実験部の設備・用地が転用可能であるとの情報を持ち込んだ。鶴尾とNとは親戚関係にあったという。

 鶴尾は昭和21年4月にその香料会社に入社し、昭和21年8月7日に旧相模工廠化学実験部の一部使用について大蔵省国有財産部の許可を得た後、同年11月29日に米第八軍東京神奈川軍政部の認可を受ける。12月には鶴尾はその工場の初代工場長に任命されて整備を進め、翌昭和22年3月8日に開場に漕ぎつけている。この日の披露式には、第二復員局、すなわち旧海軍を代表して前田稔局長や大蔵省東京財務局国有財産部長の中村晴男も出席している。いまだ軍や統制経済の色濃い時代背景を感じさせる。

 開場までの間、鶴尾は復員省や大蔵省、GHQとの複雑な交渉にあたるとともに、化学実験部時代の部下や工員を入社させたことが知られている。昭和26年に鶴尾は取締役に就任し、昭和28年3月に取締役辞任。同年12月に同社の東京工場の工場長に返り咲いている。

 香料会社の工場となった土地は化学実験部の一部であり、その他の部分は現在パイロット万年筆と不二家の工場、平塚美術館、平塚警察署および一般のマンションとなっている。パイロット万年筆が土地の取得をはじめたのは昭和22年、第一期の工事が終わって開場するのが昭和23年11月である。

 この香料会社では平塚工場が毒ガス工場跡地であることはよく知られていた。相模工廠で働いていた人たちが、ひきつづき勤務していたのだから当然であろう。毒ガスが地下に埋められている可能性は、おそらく地元ではよく知られていたことだったと思われる。ところが、2002年に寒川町の相模工廠本廠跡地で、翌2003年には平塚の同研究施設跡地で、それぞれ工事中に毒ガス入りの瓶などが見つかって作業員が被災するという事故があった。 

 敗戦後の毒ガス処理に関しては鶴尾の記録によれば、青酸ガス入り瓶の一部は進駐軍到来前に破棄したが、三号特薬とよばれるイペリットやルイサイトは処理できずに米軍に引き渡したという。

「これ等は寒川の特薬庫および平塚の特薬庫に格納してあったが各1~2トン程度あった。漸く11月かあるいは21年1月頃この処理のための部隊が來り私はこれに立つ(ママ)あった。これらを運搬して海中に投棄するのであるが、その行先は中中いわない。ようやく銚子といったのを聞いたが、これが事実なら最近銚子沖でイペリット缶が上げられ漁民が被害を受けたものがあるとの報道を裏付けるものである。[5]

とある通り、米軍は毒ガスを海洋投棄したのである。終戦後ただちに軍中央部の指示で投棄されたものもあり、連合国による海洋投棄も銚子に限らず各地で行われた模様である。その結果、浜名湖、徳島、大久野島青森県陸奥湾などで毒ガスの入った缶を引き上げるなどして被災する事故が起きている。

 周知のとおり、アメリカは極東軍事裁判において、中国で毒ガスを使用した陸軍を含め、毒ガスに関わった者を一切告発しなかった。先に述べたように、アメリカも日本も毒ガスの使用を禁止するジュネーブ議定書に批准していないことが、一応国際法上で訴追しない根拠とされるが、一方で米ソの対立により冷戦の緊張が高まる中、毒ガス使用を絶対悪と断ずることはこの後みずからの戦術の選択肢を狭めることになり、それを避けるための合衆国大統領による政治判断だったという[3]。日本軍による毒ガスの実使用は、細菌兵器の開発・使用とともに、東京裁判において免責されたのである。吉見によれば「米ソ対立によって、最大の受益者となったグループのひとつは、毒ガス戦遂行に関わった日本軍関係者たちであった[3]」ということになる。

 海軍の公式な立場としては、毒ガスの製造はあくまでも敵に先制使用された場合の報復攻撃用の備蓄であり、研究も防毒法を中心としていたというものだが、額面通りには受け取れない。ただ、製造量において日本はアメリカやドイツ、イギリスなどに比べても少なく、技術的にも他国に遅れをとっていたようである。その点、細菌兵器使用の実態や効果を示すすべての情報と引き換えに免責された石井部隊とは状況が異なる。陸軍が中国大陸において毒ガスを使用したのは明らかであるが、海軍が実戦使用したかどうかはいまだにはっきりしていない。

 もし、海軍が実戦で毒ガスを用いた事実が明らかにされ、また東京裁判において毒ガスの使用を命じた軍幹部が訴追され戦犯とされることになったとしたら、敗戦時の磯廠長が恐れていたように、果たして鶴尾大佐もそのひとりに加えられただろうか。戦場での実務がないため微妙なところではあるが、可能性はゼロではない。終戦直後には占領軍の出方など誰も予想できなかったのだから、鶴尾も何かしらの覚悟をした時期はあったかも知れない。それとも技術畑の経歴からして、自分が戦犯とされることなど思いもしなかっただろうか。

 いずれにせよ、軍需から民需へと仕事を移しながら、戦後も鶴尾はただ淡々と自分のなすべきことをしていったような気がする。民間の工場長になってから、工員に化学の講義をつづけ、化学工業に関する著述もした鶴尾の戦後は思いのほか長く続いた。退職後の昭和42~45年にかけて手書きの覚書を記しているが、亡くなったのは昭和53年の11月、78歳になる直前のことである。

 化学実験部時代の部下だった竹尾金兵衛という人が、

「鶴尾大佐は、おだやかな静かな方で、対話している時は、お心の温か味が我身に沁み込んでくるような方でありました。海軍きっての頭脳明晰であり、節操を重んずる古武士の様な風格を表わされる方でありました」

と書いている[4]。鶴尾亡き後、敗戦後40年近く経ってからの回想であるが、鶴尾の人物像を知る上で貴重な証言である。

【参考文献・註】

[1徳川宗英『江田島海軍兵学校』角川新書(2015)

[2]『海軍相模工廠』「海軍相模工廠」刊行会(1984)

[3] 吉見義明『毒ガス戦と日本軍』岩波書店(2004)

[4]『海軍相模工廠-追想-』「海軍相模工廠」刊行会(1984)

[5]鶴尾定雄『相模海軍工廠 設立経緯及び始末』手稿、防衛研究所蔵(1970述)

[6]鶴尾定雄『相模海軍工廠(化学兵器製造)に関する報告』手稿、防衛研究所蔵(1968述)

[7]海軍次官名・官房軍機密第七四八号

[8]東京大学経済学部図書館所蔵石川文書による

[9] 東京第二陸軍造兵廠関係国立公文書館アジア歴史資料センター・デジタルアーカイヴ