甲斐荘正光の生涯

 たまたま生まれあわせた時代が悪かったばっかりに貧乏くじをひいて、苦労や不運が絶えない上に、病気になってあっけなく若死にしてしまう人がいる。幕末に四千石の旗本当主となった甲斐荘帯刀正光の場合がまさにそれであり、史料から読みとれるその生涯の足跡を知れば知るほど、気の毒にも哀れにも思う気持ちが強くなる。せめてもの供養として、激動の歴史に翻弄されたその生涯をこれから綴ってみようと思う。

 甲斐荘正光は弘化二(1845)年、本所二つ目橋際にある旗本屋敷で生まれた。字は篤、幼名鎮七郎、通称を帯刀といい、幕府も新政府も文書ではこちらを使っている。後に竹牕を号した。父は幕府で本丸目付を勤めた二千四百石の旗本鈴木四郎左衛門直列、母は出羽松山藩二万五千石第五代藩主酒井大學頭忠禮の娘である。甲斐荘正博は忠禮の三男なので、正光にとっては叔父に当たる。文久三(1863)年にその正博の養子となって甲斐荘家に入った。その際に正光に改名したものと思われる。後述のように、楠正成後裔を名乗る甲斐荘家では、男子に「正」の名をつけるのが通例だったからである。

 正光は安政二(1855)年に林大學頭支配菅野坤蔵に入門し、後に鹽谷甲蔵の門人となって十二年間朱子学を修めた。師とした鹽谷甲蔵は、宕陰、九里香園、梅山、晩香廬などを号した。昌平黌に学び、松崎慊堂に師事し、その慊堂の推薦により浜松候水野忠邦に仕え、後に将軍家の儒官となった人である。鹽谷に学んだ正光は、養父正博が乙種合格をした学問吟味を受けるつもりでいたらしいが、実際に受けたどうかは不明である。

 慶應二(1866)年五月、正光は甲斐荘家の家督を継いだ。そのすぐ後の六月には、上州表御警衛を命ぜられている。六月十三日に発生した、いわゆる「武州世直し一揆」の直後のことである。この一揆秩父郡名栗村から武蔵国一七郡、上野国二郡に広まった騒乱で、鎮圧されるまでのわずか七日間に十万人もの農民らが参加して、施金、施米、借金証文の破棄などを求めて二百以上の村をめぐり、要求が容れられなければ打ちこわしをおこなったという。一揆の現場にも近い上州山田郡に甲斐荘家の知行所があった関係で、この地方の代官木村甲斐守の居る岩鼻陣屋の警固に当てられたものと思われる。六月二十四日付のこの時の「御請書」が国立公文書館の多聞櫓文書に残されている。それによれば、この騒動は「武州秩父辺農民共多人數徒黨不穏趣」と呼ばれ、正光本人が赴いたのではなく、家臣を派遣したことがわかる。また、養祖母の忌中のため、家来の彦坂民之助を名代としてこの請書を差し出したという。

 数えで二十二歳の、大身の旗本を継いだばかりの若い正光にとっては、思いもよらないことの成りゆきだっただろう。しかし、時代が大きく移り変わろうとする時期だったこともあり、甲斐荘家当主としてこの先もさまざまな苦難を受けることになる。同じ年の七月に将軍家茂が死去、十二月に慶喜が将軍宣下を受ける。翌年慶應三年十月に、その慶喜が大政を奉還するまでの間、正光が何をしていたのかはわからない。

 幕府の史料には、上州の警衛を命じられる前の六月三日に正光が出した届が残されていて、それを見ると本郷弓町の居屋敷が手狭なため、普請が成るまで隠居した養父大和守正博を隅田川西岸の橋場村にある抱屋敷にしばらく逗留させるとあるので、家の増築やら家臣の派遣やらに忙しかったのだろうと推測されるのみである【注-1】。

 慶應三年十二月に王政復古の大号令があり、年が明けて慶應四年になるとすぐに鳥羽伏見の戦いがはじまって戊辰の役へとつづいていく。江戸の幕府では一月末、老中小笠原壱岐守長行を通じて近畿に知行所のある旗本に対し、「存寄次第采地へ罷越、朝命尊奉、土民安堵相成候様所置可致」との達しを出している。要するに、傾きかけた幕府を見限り、京にのぼって朝臣となり本領を安堵してもらうことを容認したわけである。

 河内国錦部郡に最大の知行所をもつ甲斐荘家では、おそらく、隠居の正博とも相談の上で、正光が京に出ることを決める。二月二十八日に江戸を出立、東海道をくだり、三月九日駿府にて東征大総督有栖川宮熾仁親王に拝謁している。熾仁親王は三月六日に駿府城西郷隆盛らを集めて江戸城攻撃の日取りを三月十五日と決め、翌七日に駿府城代の役宅を旅宿に定めたばかりであった。

 ちなみに、熾仁親王の東上に先立つ二月十二日に尾張藩が派遣した勤皇誘引使都筑九郎右衛門駿府城を東征軍に引渡した駿府城代本多紀伊守正訥(まさもり)は、正光の養父甲斐荘正博が元治元(1864)年まで駿府城御定番を勤めていた際に、数ヶ月間だけだが上役であった人である。正光はほんの四年前まで養父が守っていた、神君家康公ゆかりの駿府城において、朝廷に帰順の意向を示したことになる。

 十二日には在所の家来海老原治助なるものに「奉願口上覚」を提出させている。

 

 河内国錦部郡之内錦部村外四ケ村知行所御座候テ當時帯刀儀江戸表罷在候處、

 今度 王政復古御一新ニ付早速上京相応之御用等モ相伺奉願度候得共、病気ニ

 罷在、甚以当惑仕候所、申遣候ニ付何分御一新の折柄急速ニ罷出御用等モ可相

 伺候段申遣置候得共、何分遠路之儀行届兼候處、此度御親征之折節相之御

 用等モ被仰付候処奉願度在候ハバ尚又所労相助如何様共急々上京可仕旨申遣 

 度奉存候。尤帯刀儀先代は橘氏則河内守正成之孫々ニテ御座候間、尚又当形勢ニ

 テハ忠勤モ可仕所存ニ罷在候所兼テ申居候間、何卒格別之以御憐愍相応ノ御用

 向被仰付、病気相助相勤候様仕度此段宜奉願上候。

 

 これが新政府側の記録である『公文録』に甲斐荘帯刀の名が載った最初である。病気で出発が遅れたことや、新政府で何かしら用向きを与えられれば勤めたいとの希望を持っていたことが読みとれる。また、当初から楠正成の末裔であることに触れていたこともわかる。この願に対する親征軍の返答として朱書きで「主人帯刀帰順之道相立致歎願候様可遂心遣其前御用被 仰付候様ニハ不相成候事」とあり、要するに帰順は認めるが任用はこちらでは出来ないから京に上って命を受けろということであろう。

 その指示に従い正光は京に向かい、三月二十八日に三条通りの豊後屋という旅館に入った。三条大橋の東にあった豊後屋は、文久三(1863)年八月二十四日に平野國臣を討つために新選組が乱入して天誅組の古東領左衛門を捕縛したことでも知られる旅館である。この旅宿から「天機伺」を朝廷に出している。宿泊先を知らせ、天皇のご機嫌を伺うとともに、次の指示を待つ旨伝えたのである。その返答は「追テ何分可被 仰渡候間其内差控罷在候様被 仰付候事」とあり、追って指示を出すから差し控えて待っておれということである。

 と言われても、黙って待ってはいられなかったようで、続いて「願書」と「心底書」を提出していることが『公文録』から知れる。興味深い内容なので翻刻しておきたい。

 

  願書

 私儀先般於駿河國府中驛 有栖川宮様 御在城江心底書奉差上候処首尾

 能御用済被為成下置、通行御差免相成、難有仕合奉存候。尤一心決定之儀者

 此段相違無御座候。依之私相應之御用向相勤申度心底御座候間、偏奉願上候。

 且又先祖累代莫大之奉蒙 朝恩難有仕合奉存候。就テハ爲冥加金何程歟奉獻仕

 度心願御座候。依而此段御伺奉申上候。宜奉蒙 御沙汰度奉存候。以上

        慶應四戊辰年三月    甲斐荘帯刀

 

 再び新政府にて何か「用向」を勤めたい旨を訴え、ついては「冥加金」を奉呈したいので「御沙汰」を頂戴したいと言う。実際に献金したかどうかは不明だが、こうした文書に正直にそう書いてしまうところが、何となく経験の少ない若い当主らしい感じがある。

 次の「心底書」は、楠正成末裔であることのアピールが強いものになる。差し控えて待っていても何の「御沙汰」もないので、待ちきれずに切り札を出してきたようにも見える。

 

  心底書

 私家之儀者元弘建武之比奉従 勅命先祖正成三代共莫大之奉蒙 朝恩候処、其

 後河内國處士ニ罷在候処、従元亀年中徳川家江仕相勤罷在候処、今般従 朝廷

 被 仰出候御趣意柄之御儀乍恐難有奉恐服候。早速ニモ罷登奉従 王命如何様

 之 御用向モ奉 伺上相勤可申之処、折節病気罷在、時日延引仕候次第、重々

 奉恐入候。一旦徳川家属麾下候共 朝恩之儀聊忘却不仕、罷登奉願候上ハ素貮

 心無御座候。今般之御趣意ニ而ハ累代之 朝恩不肖之身ニ而御座候得共奉 報

 候心底、此段相違無御座候。向後如何様之 御用筋被 仰付候共決而違背不仕

 候。何卒前件之次第被為 聞召、首尾能 御聞済相成候様、偏奉願上候。依之

 心底書奉差上候處誠恐謹言

                慶應四戊辰年三月    甲斐荘帯刀

 

 一度は徳川家の麾下に入ったものの、祖先の受けた朝恩をかたときも忘れたことはなく、この度のご一新に際して何なりとお役に立ちたいと切々と訴えている。

しかし、その後も何の沙汰はなく、四月には江戸城明け渡しとなる。

 五月十五日になって、帰順の意向を示した在京の高家交代寄合、寄合などの元旗本が朝廷に呼び出され、一斉に「本領安堵」が認められた。この報せは各知行所にも届いたようで、上州山田郡矢場村の名主が岩鼻陣屋の新政府に提出した書状の写しが、前後の事情にも触れているので引いておく。

 

       乍恐以書付御伺奉申上候

 一、上州山田郡矢場村名主角二郎奉申上候儀は、御地頭所甲斐庄帯刀様、当二

 月中被遊 御上京御奉公御勤罷在候処、五月十五日依御用御召御参朝被遊候

 所、御本領安堵被蒙 仰候旨知行所一統へ切紙ヲ以御達し有之、則御地地頭家

 族一同河内国知行所へ移居致様、御当主様ゟ書状至来ニ付、御隠居様其外共東

 京府御裁判所へ御伺之上、奉蒙御差図当七月廿七日、河内国知行所へ御出立被

 遊候間、乍恐此段御伺奉申上候、右申上度如斯ニ御座候。以上

                       上州山田郡矢場村名主 

        辰九月六日                           角次郎

 

 江戸に残っていた養父正博らが七月に出発したことがこの文書から知れる。なお、この時帰順旗本に対し、新政府は新たな家格を制定している。高家や交替寄合は「中大夫(ちゅうたいふ)」、寄合、書院番小姓組番以上の役職および千石以上の旗本は「下大夫(げだゆう)」、千石以下百石以上は「上士」と呼ばれるようになった。四千石の甲斐荘家は中大夫となった。もっとも、これらの呼称や家格は明治二(一八六九)年十二月に廃される。

 本領は安堵されたものの、この時期に新たな問題が発生した。この辺の事情を記録した『太政類典』【注-2】から、あらましをかいつまんで説明する。

 五月三十日付で正光が辨事役所【注-3】に提出した「願」によれば、知行所の河内国錦部郡にある、前年の年貢米を収めた蔵に正月十六日に薩摩藩の者がやって来て、勝手に封印してしまったというのである。似たようなことは他の旗本領でもあったようだが、病弱の正光にとっては心身を疲弊させるものであったに違いない。正光はまず、日々の出費も嵩む中その蔵の米を売って現金化することもできず「心痛」している上に、長雨で洪水となって田畑が荒れて「心配」なので、「格別の憐愍」をもって何とか封印を解いてほしいと願い出る。薩摩藩の者とは川村與十郎と永山弥一郎であるという。川村與十郎は後の海軍大将川村純義で、白洲正子の祖父となる人である。

 それでも解決しないので、六月十七日付で再度上申したところ、二十日付で薩摩藩開封するよう「達」が出されているが、すぐには周知されなかったものか、七月四日付で重ねて正光から開封を願い出ている。

 その後になって、やっと大阪府司農局の役所が動いて開封されたようで、七月十四日付で辨事に報告とお礼の文書を出している。後でわかったことだが、川村と永山は正月に封印した後奥羽方面の戦闘に加わっていたため、開封については朝廷筋にお伺いをたてねばならず時間がかかったということらしい。

 病身の正光にとっては心労の重なる日々だったことだろう。しかも、追い討ちをかけるように、江戸で療養中であった妻の久子が八月五日に亡くなってしまうのである。知行所の石田村には次のような達書が届いている。

 

 御地頭所おく様御事、久々御病気之処、御養生不被為叶、御逝去被遊、就而は、

 停止之触達至来ニ付、此段可被得其意也

                       甲斐庄知行 石田村 在役 役人

 

 八月十九日付で正光は忌服届を辨事役所に出しているので、早々に訃音に接していたもようである。八月五日から二十日間の「忌」と九十日間の「服」を届け出ている。翌二十日には養父正博が堺表に到着して【注-4】今の堺市立熊野小学校の辺りにあった甲斐荘家の蔵屋敷に入った。そして、その二日後の八月二十二日、妻の死からわずか十七日後に、正光もまたこの世を去る。度重なる心痛によって心身を衰弱させた上に、妻の死を知って気力を失ったものであろうか。まことにあっけなく、儚い生涯であった。享年数えで二十四歳である。

 しかし、残された養父正博は悲嘆に暮れている暇もなかった。若い正光に子がなかったので、甲斐荘家を継ぐ養子を探し出さねばならなかったからである。正光の死は伏せたまま、急遽跡取りを京上方で見つけ出す必要があった。正成末裔の名家の断絶を惜しんだ岩倉具視が山本鴻堂に命じて養子を探させて見つけて来たのが、本願寺坊官を務めた下間家の真人の次男源吾であったと、その源吾の墓誌に刻まれている。真偽のほどはわからないが、山本鴻堂が本願寺や下間家と近い関係にあったことは確かなので、経緯はともかく、この養子縁組に関与した可能性は高い。源吾は甲斐荘家に入って正秀と改名する。正秀はすなわち甲斐荘楠香の実父である。

 年が明けて明治二(一八六九)年二月十八日、すでにこの世にない帯刀正光の名で「傳来の品ニ付奉申上候覚」と家譜が提出されている。正成の末裔であることをあらためて訴えて、家格の上昇を狙ったものである可能性が高い。正光病気のため名代として下間源吾が書いたことになっているが、養子に入ったばかりの源吾がそんなことを知っているわけはないから、正博が書かせたものだろう。四月十二日にその源吾が正光の養子として認められた。その上で、五月二日付で正光の隠居願が出され、七月二十八日に許されて源吾が家督を得た。

 家名の存続を果たした正博は翌八月に河内長野の檜尾山観心寺に正光を葬り、墓石を建てて墓誌を刻んだ。不遇の養子に対する、せめてもの親心であったろう。

 

従五位下大夫橘朝臣正光、字篤、號竹牕、俗偁帯刀、生于東京、實鈴木直列五男也。直列者正博姉夫以愛姪之致之為養子令繼家襲食邑。明治元年春正月、近畿兵乱俄起、走出東京赴于京都、尊奉勤王之道。同年秋發病、不癒八月二十二日於于都下。而卒享年二十四、葬河州檜尾山觀心寺。境地斯建石以爲誌。

                       明治二己巳歳秋八月

                                       橘正博撰

 

 これが、甲斐荘帯刀正光が生きて死んだ証を刻した墓誌である。『公文録』上の公式記録では正光の死去は明治二年九月二十三日となっている。

 そのすぐ後、旧幕臣に対する第一次禄制改革により、甲斐荘家の家禄は五百俵とされる。さらに、十二月二日に実施された第二次禄制改革で中大夫、下大夫、上士の称が廃され、「士族」に一本化された上、知行所は府県に没収されて新禄として百三十五石が支給されることになった。本領が安堵されたはずの甲斐荘家旧領の元高四千石の実収は千四百石ほどだったというから、実に十分の一以下に減らされたことになる。

 この報もすぐに知行所に届いた。二日に出された布告が四日夕方に京都の触頭(下大夫の取りまとめ役)から回され、それを受けとった甲斐荘家の家来斎藤十左衛門が十二日付で石田村に出したものである。

 

 一筆令啓達候、然者、薄々承知も可被申、当四日京都御触頭内藤甚郎様御留守

 御用人様ゟ京都詰之家々御留守居之もの迄、為心得廻状ヲ以御布告之旨写し相 

 廻し候処、御旗本様不残領地御廃止ニ相成、於御蔵ニ御屋敷様

 現米 百三十五石

 御渡相成趣ニ有之、誠ニ以驚入候次第、恐縮之至極罷候。尤未タ京都ゟハ未被

 仰出等之下知者無之候得共、為御心得及内達候、いつれ御下知之次第、追使着

 次第可申入候、以上

 

「誠にもって驚き入り候次第」との表現が示すように、家来の狼狽ぶりが伝わってくるような文面である。それにしても、家格と家名からすれば大名並みの「諸侯」としてこの時期に華族に列せられる可能性もなくはなかった【注-5】四千石の甲斐荘家が、本領安堵からわずか一年半で、知行所とともに相応の格式を失うに至ったことは、養子に入ったばかりの源吾にとっても痛恨の出来事だったに違いない。それなりに由緒のある旧大身旗本の家に入ったつもりが、目の前でガラガラとすべてが無くなっていくのをただ見守るしかなかった。

 それも、会ったこともない養父正光が、新政府で役職を得ようとして志のなかばで無念の若死にを遂げたばかりである。甲斐荘家を継いだ以上このまま看過するわけにはいかなかったであろう。すでに正光の名代として、甲斐荘家の来歴に触れていたから、自分のなすべきことは明らかであったに違いない。すなわち、正光の養子源吾の明治は、甲斐荘家の家格回復に動くことからはじまるのである。

【注-1】あるいは、この時期に妻を迎え入れた可能性もある。正光の妻となったのは、高家旗本武田左京大夫信之の娘久子である。武田家は信玄の次男の家系から出た家で、五百石。信之は大和国郡山藩主柳沢保光の七男だが、もともと柳沢家は武田家の遺臣であり、両家には密接な関係があったといわれている。

【注-2】太政類典は、慶応三年(1867)から明治一四年(1881)までの太政官日記及び日誌、公文録などから典例条規(先例・法令等)を採録・浄書し、制度、官制、官規、儀制等一九部門に分類し、年代順に編集したもの。[国立公文書館デジタルアーカイブHPによる]

【注-3】慶應四(一八六八)年二月から太政官の総裁局に置かれ庶務に従事した属官。

【注-4】正博が江戸を立つ前の六月十三日、駿府城が徳川宗家の家達に引き渡されている。京に赴く正博も嘗ての任地駿府を通ったはずであるが、幕臣が続々と静岡に移住していく中で、その際正博がどんな思いを抱いたか興味のあるところである。

【注-5】明治二年六月二日付で「華族ト可称旨」の達が出され、公卿百四十二家と諸侯二百八十五家が華族となった。爵位を伴う「華族令」が出されるのは明治十七(一八八四)年七月のことである。この華族令以前に南朝忠臣の子孫として、新田家、菊地家、名和家が特旨を以て華族編入されているので、南朝随一の忠臣楠正成の末裔を称する甲斐荘家が華族となる可能性は高かったと言える。甲斐荘正秀(源吾)は明治二年と十六年にその家格を承認させるために請願書を出し、さらに明治二十二年にも「華族藩列願」を提出しているが、いずれも明治政府の認めるところとはならなかった。

【参考文献】

・『伊勢原市史[七]資料編近世二』(伊勢原市、1996)

・落合弘樹『秩禄処分』(講談社学術文庫、2015)

・松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』(吉川弘文館、2015)

・田中正弘『幕末維新期の社会変革と群像』(吉川弘文館、2008)