御陵衛士

 御陵衛士と言えば、通常は新選組を脱した伊東甲子太郎慶應三年三月に結成した組織のことを言う。泉涌寺にある孝明天皇の陵墓後月輪東山陵を守る衛士というのは建前で、新選組と対抗して勤王討幕の政治活動を行ったとされるが、十一月の油小路事件で伊東らが殺されると敢え無く解散した。ところが、これとは別に御陵衛士の名は明治になっても存続した。元治元(1870)年に復興された諸陵寮により、明治三(1870)年六月に、それまでの京都府御陵衛士を廃して、同府の貫属を以て守衛させる旨の達が出されている。任命されたのは、朝廷に帰順した旗本のうちの高禄の者たちであった。給与も支払われる筈だったが、明治四年に諸陵寮が廃止になってしまい、そのまま無給で勤めることになった。この職に就いたのは、九千五百石の横田権之助や五千七百石の大給求馬、五千三百石の武田信敬、四千石の甲斐荘正秀など、確かに高禄の元旗本が少なくなかった。しかし、嘗ては高禄であっても、秩禄改革によって知行所を失ったそれら「朝臣」に余裕のあろう筈もない。病気や修学を理由に次々と辞めていくことになる。最後まで残った数名は、明治七年になって、俸給を支給して貰うよう歎願書を出し、それが容れられることになったが、従事して以来の年月を対象にするとは言え、その俸給は年当たり七円に過ぎなかった。同じ明治七年の巡査の初任給が月四円であるから、馬鹿にしたような金額である。しかも、その年のうちに御陵衛士そのものが廃されてしまうのである。江戸期には、一万石程度の大名と大して違わぬ生活をしていた大身の旗本が、わずかに万石に届かなかったため諸侯としての華族にもなれず、爵位も得られず、歴然と差をつけられて生きていかねばならなかったわけで、その怨嗟の程が思い遣られる。ところが、いわゆる「歴史小説」も歴史学も、その辺のところへの言及はほとんどないように思われる。これまでも、戦後の農地改革で農地を失って没落した家の者の怒りや悲しみについてほとんど書かれていないことを不思議に思って来たが、こうしたそれまでの家格や収入一切を失った帰順旗本の悲哀や怨嗟は、全くと言っていいほど無視されて来たのである。敗者でありながら、世間の関心すら呼ばなかった点で、二度負けた人びとと言ってもいい。帰順旗本の子孫で、戦中派で敗戦後に挫折感を味わい、さらに追い打ちをかけるように先祖からの農地を失った一家の百年の物語を書いてみたくなった。