幕臣能吏の明治維新

 田中正弘著『幕末維新期の社会変革と群像』(吉川弘文館2008)に収められた、「維新変革と旧幕臣の対応」という論文を読んだ。幕臣であった宮本久平と小一父子の幕末から明治にかけての動向を追ったもので、維新による幕臣の転身の多様さの中でもめずらしいケースであり、大変面白く読んだ。小一(おかず、と読む)自身が家の由来をきちんと記録してくれたために、かなり詳しいことがわかるのである。

 先手与力を勤める御家人の家に生まれた久平は、弘化五(1848)年の幕府による「学問吟味」で「甲科及第」している。これは幕府による学力コンクールで最優等賞を取ったというに等しい。この時の甲科合格は四名で、それらの人々は幕末の政局の中で要職を占めることになる。久平も学力が認められて学問所教授を経て徒目付となるが、それほど目立った出世をしたわけではない。ところが、伜の小一が父に続いて、安政三(1856)年に学問吟味において二十一歳の若さで甲科合格したことにより、宮本家の運命は大きく変わっていく。父子二代にわたっての甲科合格はそう滅多にあるものではないが、小一の時代はさらに、有能な幕吏が必要とされていた時代であったこともある。合格の翌年には軍艦操練所調方出役を命じられ、さらに万延元年には神奈川奉行所に転任し、その後も順調というより異例の出世を遂げる。そして、幕府の末期にあって横浜において対外折衝の実務の経験を重ねて行く。その結果が、幕府瓦解後に一度は帰農を志しながら、駿河藩に呼び出された後新政府に登用され、外務省で外国要人の来日時の接伴に当たり、また外国に出掛けての交渉に随行するなどの活躍に繋がっていく。最終的に外務大丞や記録局長などを歴任して、元老院議員、貴族院議員に勅撰され、正三位に叙せられるまでに出世するのである。爵位こそ得られなかったにせよ、幕臣、それも御家人としてこれは異例の出世であろう。

 実は初期の明治政府は神奈川奉行所出身者を外務省に多く登用している。外交実務に通じていたということもあるが、新政府側で外国事務を引き継いだ東久世通禧の推薦もあったようである。というのも、幕府の終焉にともない、神奈川奉行所の所管事務を奉行水野良之以下の吏員が整然かつ円滑に新政府へ移管して、諸外国の干渉を受けることがなかったことに東久世は感激したと伝えられるからである。旧幕府側の態度は神妙であると同時に行届いていて、その場で東久世は奉行に金子を贈ったほどだったという。幕臣の優秀さと人格の高さを物語るようで、佐幕派としては、涙が出てくるような嬉しい話である。

 ところで、宮本父子のしたことでもうひとつ驚くことがある。幕府が倒れた後帰農を志したと前に記したが、それは本気だったようで、巣鴨に土地を買い求めている。それが何ともとは越前藩の下屋敷であったのだ。当然の事ながら一万坪以上の広大な土地である。確かに、諸藩の藩士が国元に引き揚げて人口の減った江戸では一時土地の価格が著しく安くなったことはあったというが、近隣も含め最終的に一万七千坪が宮本家の所有となったというのは驚きである。もちろん、贅沢をするためではなく、そこで質素に茶や桑を植えて生活していくことを考えてのことだろうが、小一の出世と併せて考えると、幕末維新期の旗本御家人の境遇の流転の中でも、きわめて珍しい成功した例にも思えてくる。学問が出来たからこその出世だろうが、一方で幕末の難事に当たる際の当主の年齢も大きく作用していたのではないかと思う。つまり、維新時に32歳だった小一は、幕末に能吏として働ける時間が十分あった上に、維新後もまさに働き盛りの年齢として奉職したからこそ、新政府においても出世の階段を登ることが出来たのだろう。維新時の当主の年齢や地位、能力の差が、結果としてその家の命運を大きく左右するだろうとは、京都の弁事役所に出された帰順旗本の「勤王願」の様々な文面からも想像できるのだが、たとえば明治元年に当主が十二歳だったりすると、幕府でも新政府でも、旗本という出自のメリットは何もないまま成人しなければならなかったことが痛いほどわかる。人それぞれではあるが、宮本家の幸運とそれを可能にした勤勉さや有能さに感心するとともに、歴史の表面に現れることのなかった敗者たちの無念さを改めて感じもするのである。