異邦人と敗者

 歴史を読む中で、権力者の振る舞いや政治史よりどうしても敗者や虐げられた人々に目が行き、民衆史や生活史のほうに興味を持ちがちなのは、わたしが取りも直さず敗者であるからに他ならない。今年は数えで六十になったわけだが、この六十年を振り返って、確かにわたしは一度も勝者になったことがない。脚光を浴びたり、持て囃されたり、いわゆる主流や王道を歩んだことは一度たりとてない。つねに裏道の日陰でそっぽを向いていたひねくれ者であった。とは言え、そのままずっと負けつづけるとは思っていなかった時期もあるはずなのだが、考えてみると「負け犬」の習性は生まれついてのものかも知れないという気がしてくる。たとえば、フランス文学である。大学でそれを専攻したわけだが、わたしが興味を持った作家は、アンリ・ミショーやマルグリット・ユルスナール、そしてシオランという人たちで、いずれもフランス文学の王道でないばかりか、そもそもフランス人ではないのである。最初のふたりはベルギー人で、シオランルーマニア人である。フランス人でないことを知った上で読むようになったわけではなく、好きになった作家がフランス人ではなかっただけである。そんなところから、わたしには異邦人や敗者、あるいはマージナルな存在への嗅覚が備わっていたような気がしてくるのである。要するに、自分と同じにおいがするというやつである。勝者の論理や覇道、時代の中心的な思想や言説に懐疑的かつ批判的である態度や、マイナーな独自性を追究するところなどに共感するところもあるのだろうし、逆に自分の正統性や順境に何の衒いもためらいも感じない連中への嫌悪や蔑視を感じてしまう性質でもあるのである。まあ、そんなこととは別に、維新で運命の奔流に流されていく旗本たちに興味があるだけなのかも知れないが。