百年の分解

 京都にあるCDIというシンクタンクから『五〇年後のために』という本を贈って貰った。創立50周年記念誌だという。50周年の50年後は計100年だから、百年史を校了したばかりのわたしにとってタイムリーな書物である。1970年に「京都の人文系の学者グループと、建築評論家の川添登先生が要になっておられた東京の建築家・デザイナーの『メタボリズム・グループ』の人脈が合体した、知的共同体」として発足したCDIには加藤秀俊をはじめとして、上野千鶴子井上章一佐伯順子といった「有名人」も嘗て関わっていたという。背後の人脈には梅棹忠夫小松左京黒川紀章などがいた。このシンクタンクが関わったある研究会の講師として招かれたのをきっかけに、執筆を依頼されたり、わたしが社史編纂の進め方を相談にいったりという風に、代表の疋田さんとは交誼を続けさせて貰っているが、その縁で送っていただいたのである。研究会で知己を得た先生方も執筆しており、先日も京都のシンポジウムに出掛けてお会いしたばかりということもあり、早速通読した。回想や未来への提言など50名を超える関係者が思い思いの文章を寄せていて、なかなか面白い読み物であった。

 その中で書き手の名をそれまで知らなかったものの、特に興味を引く文章があり、わたしの今の関心のあり方に近いものを感じたので、脚注に挙げられていた著作を注文して読むことにした。藤原辰史著『分解の哲学』(青土社、2019)である。サントリー学芸賞を受賞しただけあって読み物として面白く、また多くの刺激を受けた書物であった。この人の著作は他に『戦争と農業』『ナチス・ドイツ有機農業』『稲の大東亜共栄圏』『給食の歴史』などがあり、どれもわたしの興味を引くものばかりであり、順次読んでいきたいと思っている。専門は農業思想史、農業技術史だというが、その枠に収まらない著述活動をしているようである。食べることについての論考も多く、それも今のわたしの興味に近い。

 さて、その『分解の哲学』である。ここでいう「分解」とは、端的には生態学における生産者、消費者、分解者という分類のひとつとしての「分解」の意味である。生態学のこれらの用語が経済学から流用されるに至った経緯の解明とその用語に対する違和感の考察から、反転して、資本主義にせよマルクス主義にせよ、一貫して分解という過程の軽視・無視が見られることを明らかにし、「食べること」や「腐敗」「屑」「修繕あるいは繕うこと」などを分解のサブキーワードないし同義語として、分解を中心に据えた自然観・社会観を目指す試みの序章、といったところが本書の位置づけであろう。『現代思想』などに寄せた幾つかの個別の文章をまとめてみたら、そこに通底するものが「分解の哲学」だったという趣向である。

 すなわち、ネグリとハートの「帝国論」や積み木遊びの歴史、チャペックの小説、屑拾い(バタヤ)のコミュニティーの盛衰とそこに生きた人々、さらには修理と修繕といったことを題材に考察を進めている。従って、読み物としては面白いのだが、「分解の哲学」が体系的に正面切って論じられているわけではない。一方でまだよく整理されていない問題も多いように見受けられる。たとえば原子力の問題である。核分裂こそ究極の分解とも言えるものであるが、その点には触れずに、ただ核分裂によって生ずる核のゴミがそれ以上分解しようもなく長期間人間や自然に害を与える故に悪であるとする。従って原子力は容認できないという立場のようだが、その結論には同意するにしても、「分解の哲学」の考察としては物足りない気がしている。これからこの点を含め、さらに考察が深まることを期待したいところである。

 この本で取り上げられた、カレル・チャペックの『絶対製造工場』に興味を持ち、早速入手して今読んでいるところである。